西田博太郎西田 博太郎(にしだ ひろたろう、1877年8月1日[1] - 1953年1月26日)は、日本の染色学者。 東京府東京市下谷(現・東京都台東区)出身。父の転任で島根県松江市に転居し、松江中学校でラフカディオ・ハーン(小泉八雲)に英語を習う。1901年東京帝国大学工科大学応用化学科卒業。1903年からイギリス・ドイツに留学し、マンチェスターの高等工芸学校、フランクフルトの染料会社、ミュールハウゼンの化学専門学校で染色化学を研究し、1905年8月に帰国[1]。 名古屋高等工業学校(現名古屋工業大学)教授を経て、1909年に日本セルロイド人造絹株式会社(現ダイセル)に工務部長として入社、網干工場において人造絹糸(レーヨン)製造の研究に当たった。ドイツより文献を集め試行を繰り返したが、レーヨン製造には至らなかった。結局、米沢高等工業学校(現山形大学)教授秦逸三がレーヨン製造に成功し、帝国人造絹糸(現帝人)が設立された。これは大学発ベンチャーの先駆けとして知られる。その後、西田は日本セルロイド人造絹株式会社専務取締役に就任。セルロイドの品質向上に貢献し大量生産にこぎつけるも売れず、しばらくして退社した[2]。1914年に工学博士が授与される。1915年文部省からロシアに派遣され、ペトログラード・モスクワに滞在してロシア更紗の研究に当たり、1916年帰国[1]。 1916年桐生高等染織学校(現群馬大学理工学部)教授に就任、1918年同校長に昇進。異例ともいえる27年間の長きにわたり校長職を務め、名物校長として知られた。そのため、桐生高等工業学校は西田の影響が強く「官立西田塾」とも言われた。1945年退職。西田は退職後も桐生に留まり、桐生ユネスコ協会会長を務めていた。染色学の権威であり政治的手腕もあった。繊維工業、化繊工業の発展につくした[3]。 息子は繊維経済研究所理事長を務めた西田譲二である。 著書
共編著
脚注
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