西瀬戸エアリンク西瀬戸エアリンク(にしせとエアリンク)とは、1987年(昭和62年)4月に就航した、西中国・四国と東九州の地方中枢・中核都市である広島空港[1]・松山空港・大分空港の各空港を結ぶ三角形状の航空路線。関係地域や航空業界の期待を背負い、朝日航空により運航された。しかしながら、需要が伸び悩んだことから、航路は2年以降順次休止、運航主体も変更されるなど曲折を経て、2021年現在現存しない。 経緯開設前西瀬戸地域には航空路線として、昭和30〜40年代には東亜国内航空(TDA)または全日空(ANA)による航空路があったものの利用は芳しくなく、水中翼船の登場、道路環境の向上などにより、廃止された。このため、航空路の開設を望む声があった。また、1980年代には全国的にコミューター航空熱が盛り上がり、その時点で空港・飛行場が存在しなかった地域においてすら、特定の都市間を想定した需要計算等が盛んに行われていた。 開設後西瀬戸エアリンクは期待をもって開設されたものの、利用実績は当初会社予測のほぼ半分で、1989年度(平成元年度)は座席利用率38%と低空飛行で、累積赤字が増加した。行政機関の出張利用等も勧奨されたが、需要拡大には程遠かった。 不振の原因
てん末1991年度からは、ジャルフライトアカデミー(本社・長崎県大村市、現在は合併してエアフライトジャパン)が朝日航空の機材[4]と人員を引き継いだ。同時に新機種としてハンドレページ ジェットストリームを導入、大分-松山を廃止、広島-長崎、広島-小松を新路線として開設した。新機種のおかげで、就航率・飛行時間の短縮・改善が図られた。 その後、航空運送事業は路線維持のため自治体の補助金を受ける関係上、ジャルフライトアカデミーからの分社独立を求められ、ジェイエアが設立された。しばらくは路線を維持していたが、2001年3月に自治体からの補助金が打ち切られたことから、採算の取れない広島西飛行場からの路線を縮小、最終的には2005年2月に、拠点を名古屋飛行場へと変更、広島西飛行場からは完全撤退し旧西瀬戸エアリンクの路線は全て消滅した。 使用機材
意義
残したもの西瀬戸エアリンクは、地方都市間の新しい交通手段として、他の交通機関利用者からの転換需要を獲得できるか、又観光やビジネスなどの地域間交流の新規誘発需要を掘り起こすことが出来るかが注目された。 しかしながら、広島-松山では他の交通手段に対し優位に立てず、広島-大分、大分-松山には元々人的・経済的交流がほとんどなかったことから誘発需要も掘り起こせず失敗に終わった。当然ながら地元の甘い「期待」だけではなく、しっかりとした需要見込みがなければ成り立たないことが改めて確認された。 ただ、その後のコミューター航空動向を見れば、離島航路も含めほぼ全ての路線が自治体からの補助金で何とか維持されている状態であり、燃油費の高騰などの要因もあることから、コミューター航空を取り巻く環境は当時よりもさらに厳しくなっていることは確かである。 脚注
関連項目 |