被爆電車被爆電車(ひばくでんしゃ)とは、原子爆弾の炸裂で被爆した電車のことである。本項では1945年(昭和20年)8月6日に行われた広島市への原子爆弾投下および、同年8月9日に行われた長崎市への原子爆弾投下による鉄道車両への被害について記す。 各事業者別の概要広島電鉄当時の全在籍車両123両のうち、全焼22両、半焼3両、大破23両、中破24両、小破36両、無被災15両だった。形式ごとの内訳と被災後の処遇は以下の通り。
復旧された車両の大半は既に廃車となっているが、650形については低床化、ワンマン化、冷房化などの各種改造を受け、2023年(令和5年)現在も651・652・653(貸切専用)の3両が現役で稼働している。654は広島県ヌマジ交通ミュージアムにて常設展示中。また、150形156は1971年(昭和46年)に一旦は廃車となったものの、1987年(昭和62年)に車籍が復活している。 可部線モハ90形(モハ90001 - 90007)、モハ91形(モハ91001 - 91002)→「広浜鉄道の電車」も参照
可部線においては、山口県の幡生工機部に入場していたモハ90001・90005を除き、横川駅構内で全車が被爆した。被害程度の小さかったモハ90003のみ復旧されたが、それ以外は1946年(昭和21年)11月付で廃車となった。残ったモハ90005・90003・90001は1953年(昭和28年)の廃車後に熊本電気鉄道に譲渡され、それぞれモハ71 - 73となった。このうちモハ71は、工場の機械扱いではあるが現存する。 モハ71はしばしば被爆電車と呼ばれるが、前述の通り原爆投下当時は山口県の幡生工機部に入場していたので、実際に被爆したわけではない。 木造省電可部線では沿線に軍需工場が進出してきたことで旅客が増加したため、1941年頃より順次、木造省電(モハ1形、クハ6形)が転属してきた。在来車に合わせて集電装置をパンタグラフからポールに変更していたのが特徴である。原爆投下時点では7両が在籍していたが、このうちモハ1052・モハ1042・クハ6006の3両が横川駅構内で被災し廃車となった。 長崎電気軌道当時の全在籍車両56両の内16両が焼失、当時在籍していた車両殆どに被害があった。 焼失車両車番
戦災復旧車
戦災復旧車は1960年代まで運用されたが、西鉄福岡市内線から譲り受けた160形や自社発注の360形・370形・500形が増備されたため1967年(昭和42年)までにすべて廃車となった。 最後の被爆電車は創業車である1形1号の車体を改造した電動貨車101号で、最後の単車として1972年(昭和47年)までその姿を残していた。しかし、広島のように被爆電車に対する歴史的意義が注目されることもなく解体されてしまい、現在保存されている被爆電車は皆無である。 原爆投下時に単車ばかりで近代的なボギー車が存在しなかった事(1943年(昭和18年)に計画されたが、不認可になった)、路面電車の廃止が相次ぎ、経営体質改善のために単車からボギー車に入れ替えたりしていた1965年頃に、長崎電気軌道のバス部門の経営不振問題があった事等も、被爆電車が残らなかった一因であると考えられる。 参考文献
脚注
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