袁山松袁 山松(えん さんしょう、生年不詳 - 401年)は、東晋の官僚・歴史家・音楽家。本貫は陳郡陽夏県。 経歴清の厳可均は『全晋文』卷五十六において、姓名については袁崧(えんすう)、字が山松(さんしょう)だとしている。全晉文/卷五十六 袁方平(袁喬の子)の子として生まれた。若くして博学で文才があった。また音楽を得意とし、旧歌の「行路難」の曲を好んで、酔ってはこれを好き勝手に歌うと、聴く者は涙を流さないことがないと言われた。ときに羊曇が唱楽を得意とし、桓伊は挽歌ができ、山松が「行路難」でこれに次いだため、当時の人はかれらを「三絶」と呼んだ。また張湛が葬儀場の前に松や柏を植えるのを好み、山松は出遊のたびごとに挽歌を側近に作らせるのを好んだため、当時の人は「湛は屋下に屍をならべ、山松は道上に殯を行う」と評した。 山松は謝混の娘に求婚して妻に迎えた。顕位を歴任して、呉国内史となった。孫恩の乱のとき、山松は滬瀆を守備していた。隆安5年(401年)5月、滬瀆の城を反乱軍に落とされて殺害された。著書に『後漢書』100巻があったが現在残っているのは太平御覧に引用されて残る「光武紀論」・「章帝紀論」・「献帝紀論」の3つに過ぎない。 伝記資料
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