1879年の蜷川(昭和8年〈1933〉発行 「蜷川式胤 追慕録」蜷川第一編より)
蜷川 式胤 (にながわのりたね、1835年 6月18日 (天保 6年5月23日) - 1882年(明治 15年)8月21日 )は、明治初期の官僚 、好古家 。
文部省博物館(現在の東京国立博物館 )の開設に尽力し、また、日本の陶器を海外に紹介した。
人物・生涯
東寺 の坊官 ・蜷川子賢の長男として京都 に生まれた[ 1] 。幼名与三郎、また親胤。祖先は丹波船井郡高屋村(現在の京都府 船井郡 京丹波町 富田)の代官であったが、加勢した明智光秀 の敗亡のため、京都に移って東寺 の客(公人 くにん)となり、代々、境内東北隅の屋敷に住んだ。
父に学び、また、若い頃から古美術 を研究し、すでに1858年(安政 4年)、正倉院 の宝物模写図に奥書を残している[ 2] 。
1869年(明治2年)(35歳)7月、東京丸の内 道三丁(現在の千代田区 大手町 2丁目)に家を与えられ、次の職歴を経た。
1869年7月、太政官制度取調御用掛、権少史から少史へ進み、従7位。
1871年、少史が廃官となり、外務省の外務大録として編輯課御用書類下調掛。
1872年、文部省 博物局御用兼務を兼務して、八等出仕。
1875年、内務省 博物館掛。
1877年、1月、病を理由に退職。
在任中の業績に、次があった。
1869年 - 1871年、民法編纂の会議に列して、フランス民法典 の翻訳に協同した。海軍の軍艦旗と短剣、陸海軍の軍服の制定に関係した。
1871年、2月、太政官に許可を願い、3月、写真師横山松三郎 ・洋画家高橋由一 と、『旧江戸城写真帖』を作った[ 3] 。常設の博物館を上野と芝に開設するよう、町田久成 らと建議した。5月、田中芳男 らと九段坂上で物産会を開いた[ 4] 。10月の京都博覧会の開催に尽力した。岩倉使節団 のための、書類の準備に携わった。
陶器など収集品を保管していた蜷川家の蔵
道三町の自宅には多くの陶器を所蔵した。退職前の1876年1月、屋敷の一部を出版所『楽古舎』に改め、川端玉章 、高橋由一 らを雇い、『観古図説陶器之部』の第1 - 第5冊を、1876年から1878年にかけて刊行し、さらに1869年秋、関西へ調査の旅をした上で、第6冊を1879年に、第7冊を1880年に刊行した。石版刷りに彩色を施した画集である。京都玄々堂の松田敦朝が刷った[ 7] 。仏文あるいは英文の解説も付けられ、殆どが輸出され、海外コレクターの指標になった。
『楽古舎』では、同好を集めて古陶器の「当てっこ」もした。ハインリヒ・フォン・シーボルト やエドワード・S・モース も訪れた。式胤は1879年初から、モースと繁く交わって日本の陶器の鑑識について教え、1000点以上と推測される古陶器を、贈り、或いは共に町に出て集めた。今日ボストン美術館 が所蔵する『モース日本陶器コレクション』の発祥である[ 8] 。またシーボルトの帰国前に自著を含む少なくとも5冊の書物をおくり、これらは現在ケンブリッジ大学図書館に所蔵されている[ 9] 。
1882年(明治 15年)8月21日 、没した。享年47。谷中 の葬儀に参列したモースは、死因をコレラ と記している[ 10] 。
1902年(明治35年)、姉の辰子が、『観古図説陶器瓦之部 』、『観古図説瓦之部』を刊行した。
正倉院 の所蔵品の散逸に式胤が関わる、との推論が行われている[ 11] 。
家族
父の蜷川子賢 は東寺 の公人 。本姓・宮道蜷川氏。子賢が模写した「和蘭版地球古図」が東京国立博物館 に所蔵されている[ 12]
嗣子の蜷川第一 (にながわ ていいち)は美術史家として活動。叔父である式胤の追慕録をまとめた。また野々村仁清 の研究家として仁和寺 門前御用窯の発掘も手がけた[ 13] 。
孫の蜷川 明 (にながわ あきら)はギリシャ・ローマ美術のコレクターとして知られる[ 14] 。蜷川家3代に渡り、また自身も40年をかけて蒐集したコレクションを展示した、倉敷蜷川美術館と京都ギリシアローマ美術館 を設立し、同館の館長となった[ 13] 。
孫の蜷川親繼 (にながわ ちかつぐ)は日本文化大学 の創学者[ 15] で、第一の長男である。
孫の蜷川親正 (にながわ ちかまさ)は日本文化大学 二代目学長で、親繼の弟[ 16] である。
柏樹書院
室町時代から続く有職故実 の学塾で、日本文化大学 の前身である。式胤は、第22代当主である。自身の死後、息子の第一が第23代当主として引き継ぎ、第一の死後、その息子の親繼が第24代当主として引き継いだ。敗戦後、柏樹書院は教養学の学校として復興。しかし、親繼は日本の伝統・文化・秩序が失われていることに喪失を危惧しヨーロッパ へ留学。帰国後、東京大学 で歴史、日本大学 で政治、中央大学 で法律を学んだ。その後、柏樹書院の精神を受け継ぎ、日本本来の道徳的伝統と伝統・叡智・美風を継承し次代を背負う優秀な人材を育成する目的で、「手作り教育・徹底した少人数教育」を教育方針に、日本文化大学 の建学[ 17] に生涯を捧げた。尚、1987年 (昭和62年)に親繼が他界した後、弟の親正が日本文化大学 の学長に就任したが、1995年 (平成7年)以降は一家が学長を務めることはなく、佐々木秀雄[ 18] 、杉田博[ 19] 、大森義夫 (官僚) [ 20] 、遠藤豊孝[ 21] が学長を務め、2022年(令和4年)からは鎌原俊二が現職。現在に至る。
おもな著述
『蜷川式胤日記』、(1869 - 1882)、蜷川家蔵
『旧江戸城写真帖 』、(1871)、東京国立博物館蔵、重要文化財
『壬申検査社寺宝物図集』31冊のうちの第1 - 第7冊、および、『壬申検査古器物目録』5冊のうちの巻1 & 3、(「壬申検査」の共著)(1872)、東京国立博物館蔵、重要文化財[ 22]
『観古図説 陶器之部』第1 - 第7巻、(1876-1880)→ 蜷川親正編、中央公論美術出版 (1990)
『観古図説 陶器之部』第8巻、未完、原稿はボストン美術館 蔵
『観古図説 城郭之部』1巻、(1878)→ 新訂、中央公論美術出版(1990) ISBN 9784805501856
『観古図説 瓦之部』1巻、(1902)
『観古図説 陶器瓦之部』1巻、(1902)
『古器物記』、(1877 - 1882)、蜷川家蔵
『徴古図説』4巻(未完)
『好古図説』4巻(未完)
米崎清実編 『奈良の筋道』、中央公論美術出版(2005)
『服制に関する建言書案』、『服制に関する書状案』、『明治三年覚書』、『奈良之筋道』(1872)
米田雄介 編 『八重の残花』、中央公論美術出版(2018)
米崎清実編 『蜷川式胤「椎の落葉」』、中央公論美術出版(2024)
脚注
参考文献
脚注 の記事のほか、
林望「蜷川式胤の奇妙な依頼」、『書藪巡歴』、新潮文庫、1998年所収。
蜷川第一編、『蜷川式胤追慕録』(1932)(没後50年の記念展観の冊子)
「ドロシー・G・ウェイマン著、蜷川親正訳、『エドワード・シルベスター・モース』下、中央公論美術出版 (1976) ISBN 9784805501030 」巻末の、『蜷川親正:あとがき』
守屋毅編、『共同研究 モースと日本』、小学館(1988) ISBN 9784093580212
人名辞典類
今井祐子、明治期の在留フランス人と蜷川式胤、EBOK (17)、 53-79、2005年
今井祐子、On the Unpublished Draft of Part VIII of The Kwan-Ko-Dzu-Setsu (Ceramic Art) Held in the Collection of the Museum of Fine Arts, Boston (USA)、福井大学教育地域科学部紀要 (4)、325-350、2014年
今井祐子『陶芸のジャポニスム』名古屋大学出版会、2016年
外部リンク