藤掛永勝
藤掛 永勝(ふじかけ ながかつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、丹波国の小大名。江戸時代初期の旗本。 系図によって藤掛と藤懸が混在するが、『寛政重修諸家譜』によれば、姓は藤懸の字が正しい[4]。 生涯弘治3年(1557年)、織田氏の末流[6]で、織田永継の子として誕生。2歳の時に父と別れて、外祖父・藤懸善右衛門に養育されたことから藤懸姓を称した[4]。初名は吉勝[7]。 父・永継も織田信長の家臣で、永禄10年(1567年)、永勝も11歳の頃から信長に仕えた[4]。
天正7年(1579年)、信長の四男・秀勝が羽柴家の継嗣として羽柴秀吉に養子入りすると、信長の命によってその輔佐に任じられた[7]。 信長の死後、秀勝が丹波一国の国主に封ぜられると、6,000石を与えられた[4][10]。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いにも秀勝と共に従軍[7]。 天正13年(1585年)12月、秀勝の病死に伴い、秀吉に直臣として召し抱えられた[4][10][7]。この時に次男・永元に1,000石を分知した[4]。天正18年(1590年)の小田原の役に従軍した際には「藤懸三河」とあり、天正12年から18年の間に、従五位下、三河守に叙任されたらしい[10]。 文禄元年(1592年)、文禄の役に従軍し、2百人を率いて渡海。晋州城攻めで武功を挙げた。 加増を重ねたようだが[7]、『藤懸氏系図』には丹波氷上郡小雲に1万3,000石[1]とあり、『桃山末分限帳』によれば慶長5年(1600年)の時点で丹波何鹿郡上林に1万5,000石[7]、『重修譜』では何鹿郡へは関ヶ原の役の後の慶長6年(1601年)の移封とする[11]。 関ヶ原の戦いでは西軍に与して、大坂城下の高麗橋を服部正栄と共に警備した後、丹後田辺城攻めに参加したが、細川幽斎と親しく、攻撃は形だけであったという[7]。 →「田辺城の戦い」も参照
戦後、旧領6,000石安堵と家記にはあるが、除封は免れたが、旧領を半減されて減封か[7][10]。上林に入部して石橋村の城山の尾根、旧上林城跡の麓に、藤懸陣屋[12]を構えた[1]。この頃より、美作守を称したようだ[7][1]。次男・永元は大坂の役で戦死したので、分家は失領した[1]。 元和3年(1617年)6月5日、京都にて死去した。享年61。家督は嫡男・永重が継いだ。藤懸氏は分知で所領を減らすが、曾孫・永次の代でも大身旗本(4,500石)であり、以後も存続した。 脚注
参考文献
|