藤原重方藤原 重方(ふじわら の しげかた、保安5年(1124年)ごろ[1] - 没年不詳)は、平安時代後期の貴族。権中納言・藤原顕隆の孫。美濃守・藤原顕能の三男。官位は正四位下・右大弁。 経歴近衛天皇の六位蔵人・右近衛将監を経て、康治2年(1143年)従五位下に叙爵。のち、宮内少輔を務める。久寿2年(1155年)後白河天皇が践祚すると女御・藤原忻子の家司に任ぜられ、忻子の立后後も中宮権大進・皇后宮権大進として仕えた。 後白河院が院政を開始するとその判官代を務める一方で、応保元年(1161年)二条天皇の五位蔵人に補せられる。長寛2年(1164年)正月に蔵人を除籍されるが、8月には還補されている。 永万元年(1165年)六条天皇が践祚すると引き続き五位蔵人を務めた。 仁安元年(1166年)8月に五位蔵人を辞して、左衛門権佐に遷り、翌仁安2年(1167年)正月に右少弁に遷任する。その後は、嘉応2年(1170年)従四位下・権右中弁、承安元年(1171年)従四位上、承安2年(1172年)右中弁、承安3年(1173年)正四位下、安元元年(1175年)左中弁と後白河院政期中期に弁官を務めながら昇進を重ねた。 治承3年(1179年)右大弁となり公卿の座を目前にするが、養和元年(1181年)8月29日病気のため出家した。 官歴注記のないものは『弁官補任』による。
系譜『尊卑分脈』による。
脚注参考文献 |