藤原岩市

藤原 岩市
生誕 1908年3月1日
日本の旗 日本 兵庫県
死没 (1986-02-24) 1986年2月24日(77歳没)
所属組織 大日本帝国陸軍
陸上自衛隊
軍歴 1931 - 1945(日本陸軍)
1955 - 1966(陸自)
最終階級 陸軍中佐(日本陸軍)
陸将(陸自)
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藤原 岩市(ふじわら いわいち、1908年(明治41年)3月1日 - 1986年(昭和61年)2月24日)は、日本陸軍軍人陸上自衛官

太平洋戦争においてF機関を指示し、チャンドラ・ボースらと共にインド国民軍の編成や戦後のインド独立に大きな役割を果たした。そのため、インド独立運動に携わり「インド独立の父」と呼ばれるマハトマ・ガンディーに対して、藤原はボースと並び「インド独立の母」とも呼ばれる[1]

経歴

藤原為蔵の二男として兵庫県多可郡(現在の西脇市黒田庄町喜多)に生まれる。柏原中学校を卒業し、陸軍予科士官学校を経て、1931年7月、陸軍士官学校(43期)を卒業、同年10月、陸軍少尉任官、歩兵第37連隊付となった。天津駐屯歩兵隊付、豊橋陸軍教導学校付などを経て、1938年5月、陸軍大学校(50期)を卒業。歩兵第37連隊中隊長、第21軍参謀、留守第1師団司令部付を歴任。

戦中

藤原はもともとは情報畑の人間ではなかった。1939年服部卓四郎によって中国から呼ばれて参謀本部入りし、作戦参謀となる予定だったが、当時藤原がチフスを患っていたことで、そのころは皇族も在籍していた作戦課ではまずいということになった。それで謀略・宣伝を担当する別の課(第8課)に配属されることになったという。

陸軍中野学校の教官も兼務しながら、任務の性格について勉強していたが、南方作戦の実施が参謀本部の中で本決まりになってくると、8課では現地における宣伝戦について調査企画することを藤原に命じ、藤原は嘱託の民間人十数名を集めて調査研究を開始した。日本における現地情報の不足に直面した藤原は、自ら偽装身分で現地に入って情報と資料を集めた。また、民間の作家、記者、芸術家などを進軍先に連れて行って思想戦に資することを提案し、認められた。いわゆる報道班員である。

1942年2月15日、シンガポール。山下奉文中将と降伏交渉を行うパーシバル中将 右から三番目、立って両手を後ろに回しているのが藤原。机の上に両腕を置いてイギリス側を睨んでいるのが山下奉文将軍。

1941年10月、駐バンコク大使館武官室勤務として開戦に先駆けて当地に入った藤原は、南方軍参謀を兼ねる特務機関の長として、心理戦を行った。若干十名程度、増強を受けても三十人ぐらいの部下だけで、藤原はかなり幅広い任務を与えられた。その内容は、極端に言えば、マレー人、インド人、華僑等を味方にすることである。その一環として福岡県筑紫郡出身で2歳からマレーシアに暮らす谷豊を諜報要員として起用したのもF機関であった。谷は死後、「マレーの虎(ハリマオ)」として日本で英雄視されることになる。

藤原と握手を交わす モーハン・シン大尉英語版(1942年)

F機関と藤原の最も大きな功績は、インド国民軍の創設である。当時タイに潜伏していた亡命インド人のグループと接触して、彼らを仲介役として藤原は英印軍兵士の懐柔を図った。藤原は、降伏したインド人兵士をイギリスやオーストラリアの兵士たちから切り離して集め、通訳を通して彼等の民族心に訴える演説を行った。この演説は(日本についての歴史的評価がどうであれ)インド史の一つのトピックである(w:The Farrer Park address)。インド国民軍は最終的に5万人規模となった。

期待以上に大きくなったインド国民軍は、一少佐の手に余るものであり、F機関を発展解消して岩畔豪雄を長とする岩畔機関を作った。岩畔は中国における工作活動の経験豊かな人物だったが、インド事情には精通していなかった(それは藤原も同じだったが)。日本軍とインド国民軍の間で、またインド国民軍の内部で、トラブルが頻発した。インド国民軍初期の統率者であったモーハン・シンは日本軍に度々反抗的な姿勢をとったため解任させられた。彼らをまとめられる人物としてインド人の推挙に従いスバス・チャンドラ・ボースをドイツから潜水艦で呼び寄せた。両軍とも大小さまざまなトラブルに悩まされつつ終戦まで一緒にやっていくことになるが、藤原は後年、自分が岩畔の幕僚として残ればもっとインド人たちとうまくやっていけたかもしれないと後悔している。

スマトラ島での同種の活動の後、藤原はビルマ方面軍の参謀を経て内地でも参謀業務を行っている。

戦後

終戦時、藤原は九州の病院に入院していたが、そこに偶然、チャンドラ・ボースの飛行機事故で負傷した軍人が転院してきて、彼の死亡を知った。藤原は衝撃を受けたという。

やがてGHQ経由でイギリスの出頭命令を受け、1945年11月、インドまで赴く。そこではインド国民軍に参加したインド人将校たちを反逆罪で裁く裁判が行われており、その証人として呼び出されたのだった。しかしインドでは独立を求めてインド人たちの行動が活発化しており、この裁判に抗議する十万人規模のデモが繰り広げられ、軍艦を占拠されたりするような状況で、結局この裁判はうやむやのままに打ち切りとされた。

その後は藤原を戦犯とする裁判が始まった。1946年3月、ラングーン経由でシンガポールはチャンギーの刑務所に送られ、尋問を受けた。その尋問はとても厳しいものだったという。幸いにも、有罪とはされなかった。この後、さらにクアラルンプールで別のイギリス軍組織から、すなわちイギリス軍情報部から、F機関とインド国民軍結成について取調べを受けた。尋問官は藤原の功績をglorious success(輝かしい成功)と評価し、自身経験もなく、人員も不十分なのにもかかわらずそれを成しえた理由を聞きたがった。藤原自身その理由はよくわからなかったが、とにかく自分は誠意を持って彼らに接したんだということと、イギリスの統治に無慈悲なところがあったからではないか、と考えながら説明したという。

1947年6月、日本に戻った藤原は復員局の戦史部に在籍した後、公職追放を経て[2]1955年10月、陸上自衛隊に入隊した。1956年8月、希望して陸上自衛隊調査学校の校長に就任し、自衛隊情報部門の育成に努める。その後、第12師団長第1師団長を歴任した後、1966年1月、依願退職。藤原はまだ制服を脱ぐ前から東南アジア諸国について個人的に活動を行っていたが、退職して自由になると各地を訪問して現地の要人と関係を深めた。インドネシア情勢について、スカルノ失脚不可避の見通しを外務省より先に政界に伝えたといわれる。

インドネシア独立の英雄でもあるスカルノ大統領は、その在職が長期化するとともに、当初の清廉さを失い汚職にまみれ、盟友だったモハマッド・ハッタ副大統領まで諫言辞任した。1965年9月に起きた親中国派によるクーデター事件(いわゆる9月30日事件)後も米国はスカルノ続投支持の方針であったが、藤原岩市は中島慎三郎らとともにスカルノを排し、1966年(昭和41年)のスハルト政権誕生に力を尽くした。

藤原と三島由紀夫の関係について、山本舜勝は、三島のクーデター計画に藤原も関わっていたと著書で書いているが、その信憑性は不明。藤原は田中清玄に紹介されて三島と知り合い、自衛隊各所への紹介を行ったのは事実のようである。

1971年第9回参議院議員通常選挙自由民主党公認で全国区から立候補するが落選した。

1978年4月29日勲三等瑞宝章受章[3]

1980年9月:全国戦友会連合会会長に就任した。

1986年2月24日:逝去、叙・従四位[4]

逸話

  • 名の由来は従兄の「峯市」に倣ったもの。藤原は親から貰った「岩市」を安っぽいと感じていた。藤原は名前のせいで中学の同僚に「ガンイチ」「ガンジー」とからかわれたというが、インドに引っ掛けた冗談なのかは不明[5]。当時の友人の証言によると、あだ名は「マンモス」[6]。柏原中学校時代の藤原は大柄で、クラス80名中一番の巨漢であったという。学力は上から2、3番で、特に国語と歴史は首席の生徒より得意であった。中学時代は剣道部副将で、昭和10年に天津歩兵連隊剣道大会で優勝した経験がある[7]。ただし、柔道は未経験だった。そのため、中学組だった藤原は幼年学校出身者の同期相手には不利だった。高田清は陸士第四十三期時代の藤原について「あの巨体を投げ飛ばして気の毒な気がした」と述懐している[8]。また、語学でも幼年学校出身者はドイツ語、ロシア語、フランス語などを既に学んでいたが、中学組は語学教育が遅れる立場であった。中学組で英語のできる者は英語コースに回され、出来ない者は中国語に振り分けられた。藤原は中国語コースに回されたが、それすらほとんど覚えられなかったという[9]。一方、運動時間の行程で藤原は同期の横沢三郎と教科書の棒暗記を競演しあい、仲間を驚かせたことがある[10]
  • 昭和8年、藤原は天津海光寺兵営で軍戦車隊長に任命された[11]。当時の天津駐屯戦車隊は、上海事変の時鹵獲したイタリア製のフィアット戦車3両とイギリス製ガーデンロイド装甲車5両から編成されていた。これらの装備は普段秘匿扱いとされ、いざというための奇襲用であった。そのため戦車の整備、訓練は車庫内で行われ、操縦は営内に現地人がいない早朝、または夕方遅くに実施していた。マニュアルはなく、訓練は体験による伝授であった。藤原はこの訓練を数回繰り返し、全身汗だくになりながら上官の太田庄次に「相当なものですね。これを毎日続けたら殺されてしまいますね」と冗談を言っている。藤原は「愛国一号」と呼ばれた戦車に乗ると、はりきった様子だったという[12]
  • 藤原は戦後、「大東亜戦争はアジアの解放ということだったという考えについて、どう思っていらっしゃるのか」という問に対し、「日本の自存自衛の戦争やね。それを大東亜共栄圏というオブラートで包んだ。まあ(日本人は)島国に長い間住んでいたんだし、インド人やマレイ人がどんな飯食ってるか、どんな顔してるか、どんな着物着てるかわからない。だから戦地では笑えないこともいっぱい起こる」と答えている。藤原は軍の現地人に対する無理解や偏見、差別意識を痛感してきた。「インド人やビルマ人は食事は手でつかんで食べる。日本人はそれをみて汚いなぁと思う。しかし箸で食べるのがおかしいのよ。軽業師みたいなもんだ。それを箸を無理に持たせるようなおせっかいをやく。日本人は花といえば桜でなくちゃいかんという気持ちが強い。しかし、人の愛しとるバラもまた花なんだ。そういうことがわからなかった」。藤原の対応を過度だと叱責する者もいた。「ある参謀が、日本人すら飲めないミルクをインド人に飲ませるとは何事か!と怒ったこともある。でもヒンズー教でないインド人にとっては、みそ汁みたいなものですからね。大佐クラスの物のわかっている筈の人で、あんなクロンボに何ができるかい、と平気で言う人もいましたからね。ちょっと親しい人になると、藤原、そんなつまらんことはやめろ、と忠告してくれたり……塚田参謀は私のことをいろいろ気にかけてくれた人ですが、その人すら、日本に所要で帰る途中、台北の旅館で、お前を参謀会議によぶから、あれはやめろ、と言いましたね。これは私のことを思って言ってくれたわけですよ」[13]
  • 開戦直前、バンコクの隠れ家で初対面の石川義吉に合流した際、白いパンツ姿で現れている。藤原の裸姿に石川は「暴力団のボスではないか」と驚いた[14]
  • 藤原が第3飛行師団に宣撫工作の協力を依頼した際、消極的な反応をされたという。藤原はこの件について「ビラを英印軍のインド兵が読むように撒く方法もとったが、(第3)飛行団の遠藤三郎さんも私が頼みに行くと、ビラ撒きは嫌だ、パイロットは爆弾なら張り切るが、と言う始末でネ、それでも頼みこんでやっと引き受けてはくれたんだが、なかにはビラを束のままドカンドカンと落としてくるパイロットもいましたよ。とにかく、インド人が相手というよりも、日本軍を説得するのが第一よ。私らは(日本軍への)説得ができたら、この工作は成功するよ、と言っていた」と述懐している[15]。また、藤原は天津疎開封鎖事件やジャワ謀略放送で成果をあげていた長笠原栄風を評価していた。報道班員として徴用されていた長笠原は帰国を待ち望んでいた。1942年10月末に報道班員の帰国が下ったが、この時藤原が長笠原を帰国リストから除外してきため、ひと悶着が発生した。長笠原の抗議に対し、藤原は「どうしてもきみは必要だからのこってくれ」とシンガポールへの残留をすすめたが、長笠原は「残りたくありません」と一蹴、宿舎へ帰宅してしまった。翌日、藤原は朝の散歩のついでに長笠原のいる宿舎へ寄り、馬上から「長笠原、残れ」と呼びかけるようになった。この時長笠原は「嫌です」と答えたため、藤原は去ったが、翌日も同じように呼びかけに来た。そうした問答が3日続いた。4日目になって長笠原は観念し、藤原がシンガポール在任中のときだけ現地に残ると条件付きで妥協した[16]
  • 藤原は「インド人てのは複雑な性格を持っていてネ、煮ても焼いても食えないぐらいです。しかし、私らとはうまくいった。反対に私らと華僑とはうまくいかなかった」と華僑工作の失敗を振り返っている[17]。藤原は水や電気の復旧には華僑の力が欠かせないと認識しており、マレー西海岸のタイピンで華僑に対する温和な政策を計画した。華僑が日本軍を迎える際には、『和平建国』のスローガンを書かせ、日本の旗と青天白日旗を同時に掲揚させる融和的な政策を実施した。これは当初軍政担当参謀副長から承認を得たものだったが、幕僚間で青天白日旗掲揚許可を非難する声が高まり、掲揚は禁止され、F機関は華僑工作の任務から外された。川本彰は青天白日旗の掲揚自体が、華僑の意識的な反抗である可能性を指摘し、藤原の融和政策には賛成しえないと厳しく評価している[18]
  • 藤原はインド国民軍の運用に悩まされるようになっていった。南方軍の中では発言力がなく、辻政信らからは「藤原、オマエのところは兵力が余っているようだから、スマトラを占領して来い」「あいつら土方に使え」と勝手なことを言われる立場であった。藤原は辻があまり好きではなかったようだが[19]、辻は藤原に好意的で、藤原の部下の山口源を盲腸から救ったこともあった[20]。また、シンガポール陥落後、現地で結成されたインド国民軍師団の中に英軍の高射砲を有する部隊があった。これに目を付けた参謀本部は、東南アジアからの資源物資を日本へ輸送するにあたり、各輸送船に1、2門の高射砲と兵士を配置させるべくインド国民軍に協力を求めた。しかし、インド兵は祖国独立を望んでおり、日本軍の作戦に強制的に協力させられるのは協定違反だと主張した。インド兵からの通報で港に駆けつけた藤原は、輸送船を前に乗船を拒否し、何時間も波止場に座り込み、無言で抵抗するインド将兵らを目撃した。この抗議により参謀本部は命令を撤回したという[21]。インド国民軍側も「すぐにインドに向かいたい」「日本軍と同列で戦いたい」「もっと武器をくれ」と要求してくるため、少佐では力不足と判断され、F機関の役目は岩畔機関が引き継ぐ形となった[22]。モーハン・シンは「われわれは日本軍の傀儡でも手先でもない。ただ同盟国の軍隊として援助を仰いでいるだけだ。それが山下将軍とわたしとの約束であったはずだ」とかたくな態度をとった。ラース・ビハーリー・ボースも岩畔も日本側、インド国民軍側の中間に立って苦慮したが、モーハン・シンはビハーリーを日本の傀儡とまで非難し、岩畔機関に反抗した。この反抗は東條英機の耳にも入り「岩畔の野放図さかげんにもほどがある」と怒鳴ったという[23]。ギル中佐は岩畔に配慮するため対印諜報機関を結成しバンコクで活動した。ところがその一員であるインド人将校が英軍スパイであることが発覚し、嫌疑がもたれたギル中佐もシンガポールで投獄された。岩畔はビハーリーと協議し、反乱の危険があるモーハン・シンの逮捕を決定した。そして説得役として藤原が買って出た。「あなたがタイピンでぼくと約束したときは、こんなはずではなかった」。藤原は「ぼくが微力なばかりに……申し訳ない」とモーハン・シンに謝罪した。二人の目には涙があふれ、男泣きに泣きながら別れを惜しむこととなった。モーハン・シンは諦めきったように「藤原さん、私はあなたの顔をみてしまっては、何もいえません。俘虜の私を救って下さったのはあなただけでした。熱心に決起を促したのもあなたでした。私はまたもとの俘虜の身にかえりましょう」と言い、寂しく自嘲の笑をもらしたという。モーハン・シンは憲兵に連行され、ウビン島に終戦まで流刑された。この島はシンガポール攻略の際、近衛師団とともにモーハン・シンが部下を率いて上陸し、夜襲をかけた場所でもあったという[24]。やがてスバス・チャンドラ・ボースがインド国民軍の指導者となるが、モーハン・シンもスバスのようなカリスマを持つ人物が指揮をとるのを渇望していたという[25]
  • 1944年2月中旬、インパール作戦に先立ち、各師団に従軍する宣伝班員の壮行会がメイミョーで行われた。催しは第十五軍将校集会所の大広間で行われ、朝日、毎日、読売、同盟の記者、カメラマン、連絡員、報道関係の軍人を加えて30名であった。この時藤原は「今夜は何もありませんが、ゆっくりと飲み、かつ語り合いたいと存じまして、このささやかな壮行会を催した次第であります。申すまでもなく今度の作戦の成否はひとりビルマ方面だけでなく、日本の全戦略にとっても重大な意義を持つものであります。印緬方面は有名な悪疫流行の地でありますから、前線に出られる方々は十分に留意して活躍してください。新聞社の皆さんに理屈をくどくどのべるのもおかしいので、私の挨拶はこれくらいにして乾杯をします」と言って型通りの乾杯を行った。藤原はねえさんかぶりになって風呂敷包みを背負って、当番兵の唄う「九段の母」に合わせて踊って拍手を浴びた。これがきっかけで記者たちは自己紹介を兼ねて隠し芸大会に入り、夜の更けるのも忘れて歌い続けた。尚藤原はこの時の自身を「無芸無粋の朴念仁」と評しているが、同席した松本明重は藤原の「必死な哀歓を英霊に訴える」姿に感激し溢れる涙で汲み取ったという[26]。その後2、3カ月後、宣伝班は悲惨な敗残部隊となった[27]
  • 陸軍特派員の丸山静雄によると、カボウ谷地で戦死した日本兵を見て「かわいそうに」と号泣しながら遺体を運ぶ藤原が目撃されている[28]
  • ビルマ方面軍の参謀として1944年のインパール作戦に参加中、藤原の下に第15軍司令官の牟田口廉也中将が「作戦の失敗の責任を取って、腹を切って陛下や死んだ将兵にお詫びしたい」と相談してきた。これに対し藤原は「昔から死ぬ、死ぬといった人に死んだためしがありません。 司令官から私は切腹するからと相談を持ちかけられたら、幕僚としての責任上、 一応形式的にも止めないわけには参りません、司令官としての責任を、真実感じておられるなら、黙って腹を切って下さい。誰も邪魔したり止めたり致しません。心置きなく腹を切って下さい。今回の作戦(失敗)はそれだけの価値があります」と答え、牟田口は悄然としたが自決することはなかった[29]。1952年、インパール作戦の非難に耐えきれなくなった牟田口は、藤原の自宅を来訪し助言を求めにきたという。藤原は「武運が軍に背を向けた悲運は無念ですが、矢張りこの責任は閣下に負っていただなかなければなりません。敗軍の将は兵を語らずと申します。閣下は生涯黙して語らずに、只管自責の悟道に徹してください。そして麾下戦没将兵の冥福を只管に祈念精行してください」と訴えた。数ヶ月後、藤原の前に現れた牟田口は「自分の立場を表明もせずに世を去ることは、後世の史家を誤らせる」と主張してきた。藤原は隠忍自重を求めたが、牟田口は納得しなかった。そこで藤原は思い切って、あくまで研究資料として回想録を執筆し、30年間公表しないことを前提に国会図書館に納めてはどうか、と提案したという。1962年秋、第12師団に在勤していた藤原のもとに、牟田口から一通の封書が届いた。封書には、バーカー元イギリス軍中佐のインパール作戦成功の可能性に言及した来信が同封されていた。この頃を境に牟田口は自己弁護活動を行うようになり、藤原は失望と悲しい思いになったという。自信を取り戻した牟田口は、藤原に自衛隊幹部の前で講演する機会を設けてくれと要請してきた。藤原は即座に断った[30]
  • 小平調査学校校長時代、藤原は戦後も中野学校式教育を継続したが、米軍のCICを推奨する松本重夫から「岡っ引き情報」と批判され対立していた。(ただし、藤原も中野学校式教育の踏襲だけでは近代謀略に立ち遅れることを恐れ、1958年、調査学校にグリーン・ベレー方式を導入していた[31]。)藤原はインパール作戦など自身が関わった作戦に関する研究を他人にやらせなかった。松本はインパール作戦の開始日がなぜ英軍に知られたのかを注目し、重要な研究課題と称して当時の藤原の周辺を密かに調査し、藤原の近くにいた方面軍司令部の通信隊長からも状況を詳しく聞き出したという。松本は藤原の参謀室から情報が漏洩した可能性が極めて高いとし、藤原の名前を伏せつつインパール作戦の情報漏洩問題を研究報告としてまとめた。それを知った藤原は松本を敵視し、調査に関わった者全員に圧力をかけたという[32]。また、松本は陸軍士官学校の同期だった押田敏一から内閣調査室の要員にならないかと誘いを受けた。藤原はこの動きに不満を持ち、松本を呼び出して「お前は裏で内調へ移りたいという運動をしているのか?」と問いただした。松本は「いえ、向こうから来ないかという誘いがありましたから、かまわないと言ったまでですが……」と返答した。藤原は「お前は変な情報のことばかり頭に入っているようだ、野外令を一から勉強してこい」と不満を示した。松本は「野外令は誰が書いたかご存じで?」と反論し、「知らん!」との返事に「平野さんと曲さんと私ですよ」と返した。「そんなことはどうでもいい、向こうの教官に習ってこい!」「その教官に野外令の普及教育をしたこともありますが……」揚げ足をとられる形となった藤原は怒り狂い、松本は調査学校から幹部学校学生へ飛ばされた[33]。また、松本は自著で第12師団団長時代の藤原の失態をあげている。戦車(特車)部隊の移動命令時、キャタピラをゴムに変え公道を移動させる必要が生じた。この時大隊長だったTは藤原に時間不足で予定を変更する必要があると進言したという。藤原は「実戦でそんなことが許されるか!」と強行を命じた。それが原因で車体が滑り事故が発生したが、責任は藤原ではなくTが負い処罰が下ったという[34]。尚、この隊長の本名、事故の状況、時期や現場について等の詳細を松本は記述していない。また藤原も心残りがあったのか、最晩年に出版した『留魂録』の後記で恩顧の方々の一人として松本の名をあげ、回訓に記載できなかったことを悔やむ記述を残している[35]
  • 1963年1月、藤原は知事の要請で数百人の自衛隊員を動員し、長岡市の鉄道除雪に従事した。いわゆる昭和38年1月豪雪である。藤原は雪の特性を知らず「雪はコンクリートのように硬い。最悪の場合は火炎放射器を使わざるを得ない」と塚田県政に説明した[36]
  • 1964年5月3日、藤原は豪徳寺に身を寄せる今村均を訪ねた。そこで戦時中、ジャワで今村の乗用車を運転していた兵士が復員後に、誤って強盗殺人を犯し無期懲役となったこと(米俵を窃盗中組み伏せられ、振り払おうとした手が老人にあたり心臓麻痺で死なせた)、更にその息子が復讐で農事小屋に放火し、仮釈放後今村が世話をした話を聞かされた。藤原は「世に勇将、驍将、豪将、智将といわれた将帥は少なくありませんが、このような聖将は稀ではありますまいか。われわれは、今村大将のようなご心境になかなか到達できません。生涯かかっても、その百分の一にも達することができないでしょう」と今村を評している[37]
  • 参議院選挙落選後、1973年に藤原アジア研究所を設立。所員には元F機関員もいた[38]。藤原にはF機関の関連で沢山の人脈が残った。かつての仲間や部下、大川塾出身者や大陸浪人のような者が藤原に情報をもたらした[39]
  • 1975年3月10日から19日にかけ、インパール州マニプール、ナガランドにて第一次インド方面遺骨収集を主催。当時同地域は治安が不安なためインド政府側から反対があったが、藤原の働き掛けにより実現したものだった。団体行動以外の禁止、限られた作業時間の中、現地住民の協力により353柱を収集[41]。帰国後4月24日、藤原は遺骨収集報告のため東宮御所に参上。当時皇太子であった明仁上皇からお言葉を賜わる[42]
  • 1978年4月17日、NHKテレビで月曜特別番組として、「進め!デリーへ」と題した番組が放送された[43]。これは磯村尚徳をはじめ取材陣が現地したもので、藤原の斡旋でインド国防軍当局や、英軍事裁判の被告であった将校、当時ボース記念館を運営していたチャンドラ・ボースの甥の全面的な協力を得たものであった[44]。番組では藤原のインタビューの他に国会議員に出世していたモーハン・シンも登場し、インド人将兵に向けたファーラー・パークでの演説をNHKの依頼で本人自ら再現した。収録は1分を予定していたが熱演のあまり5分過ぎても終わらず、広場一面にヒンズー語が響きわたっていたという[45]。尚、NHKが組織的、計画的に番組の保存を始めたのは1981年からであり、本番組はその前に撮影されたため映像が現存するかは不明である[46]
  • 藤原はインドネシアを東南アジアの天王山と評し、同国が赤化すれば日本も「共産圏あるいは米陣営に、決定的に依存隷属を余儀なくされる」と地政学的な見解を示している。また、スカルノ政権の支援は中国共産党やインドネシア国内の容共華僑の増大に繋がるとして、当時の外務省や商社、デヴィ・スカルノの活動に否定的であった[47]。藤原は何度もジャカルタに行き、現地のデモを見て「スカルノは民族の敵になりました。日本はスカルノを支援してはなりません。デビー夫人(デヴィ夫人)はPKI支援演説をするので学生に嫌われています。日本はスカルノへの援助を中止してください。デビー夫人は物欲、政治欲の塊で咽喉に刺さった棘です」と福田赳夫高杉晋一に報告したという[48]。藤原はデヴィ夫人に対し「色魔」と自著で表現している[49]
  • 藤原は東南アジアだけでなく、東アジア情勢についても言及を残している。中華人民共和国に対して「アジア人をしてアジア人と戦わしている元凶は中共であり、共産勢力であると思います。朝鮮民族と朝鮮民族、日本の国民と日本の国民、印度人とパキスタン人を嚙み合わさせる、またインドネシア人を二つに分けて、泥沼の共産革命を企画し、さらに、親と子さえ嚙み合わさせる―これは、共産主義戦略の基本タイプです。そういう残忍にして、陰惨な戦略をとるのが共産主義であり、中共なんだという実態を、よく見極めるべきであります。」「われわれは平和を求めているのですから、敢えて中共を刺激する必要はありません。しかし、中共の問題は、これからが大変です。」「台湾が、中共に併合されることはあり得ることです。その時には、中共は日本をカバーする完全な核武装を持つことでしょう。」等と強い警戒心をみせている[50]。藤原は中国がアジアの将来を決定的に左右する存在だとして「民主中国に回復することが絶対必要な命題」と主張した。また当時杭州、上海、四川、潘陽で起きた工員のストライキや、文化大革命や軍の権力闘争、ソ連との対立などの情勢不安を「民主中国光復の光明」と見なした。しかし、藤原が没した40年後も中国共産党は国家体制を維持し続けている[51]
  • 毛沢東について藤原は「共産革命の同志を次々謀殺、追放しつくした者は稀代である。スターリンもこれに及ばなかったのではないか」「正に先年群馬県下で摘発された赤軍リンチ虐殺事件の図である」「蒋総統とは正に雲泥の相違」「スターリン同様批判を浴び、水晶棺の屍が鞭打たれること無しとしないと思われる」と酷評した[52]
  • 藤原は金日成を「民衆に領主様と尊称させ、絶対神話化を強いる」人物だと評し、ストックホルムで北朝鮮大使が麻薬密売をした例を挙げ「前代未聞の醜態」と批判している。またインドで北朝鮮大使館員の家賃滞納騒動が起きた騒動から外貨枯渇を指摘している。藤原は朴正煕大統領の「民主主義にも国籍がある」という発言について「日本を基地とする北鮮のスパイ、謀略分子の活動が野放しに放任されている数々の事実に深い不満がかくされている」と指摘した。[53]
  • 記者の市川宗明の取材に対し、藤原は「自衛隊に中野学校はない。ないというより、出来ないといったほうが適当でしょう。第一、自衛隊はまだ軍隊ではないのです。中野学校では女房ももらわない、命もいらない、カネもいらない、ただ国家の捨石になろう、というのでしたが、そんなこと、いまではできませんよ」と語っている[54]
  • 調査学校の部下だった木村武夫によると、正月に隊規で残留している営内居住隊員を自宅に呼び、藤原ら家族一同で料理を振舞っていたという。藤原自身も料理をしていた[55]
  • 愛煙家で、後の義弟となる青柳吉里に対し「君も高等学校に入ったのだから煙草くらい吸わなければ」とキャメルのタバコを勧めていたという。晩年、体を崩した際も青柳にセブンスターをねだり「肺がだんだん死んでいくんだよ」「出来ることは好きな事をやった方が良いね」「まだ美味しい」と語っていた[56]

著書

  • 『F機関』原書房、1966年
    • 『藤原機関 インド独立の母』原書房、1971年。新版
  • 『大本営の密使‐秘録 F機関の秘密工作』番町書房、1972年。各・読みやすくした版
  • 『F機関 インド独立に賭けた大本営参謀の記録』振学出版(星雲社)、1985年
  • 『F機関‐アジア解放を夢みた特務機関長の手記』バジリコ、2012年。ISBN 978-4862381897
  • 杉田一次との共著『スイスの国防と日本』時事通信社、1971年
  • 『留魂録』振学出版、1986年
関連出版
  • 『藤原岩市追憶』藤原吉美 編(私家版)、1988年
  • 岡部伸『至誠の日本インテリジェンス 世界が称賛した帝国陸軍の奇跡』[59]ワニブックス、2022年

家族親族

脚注

  1. ^ 日本人が忘れ、インド人が忘れなかった藤原岩市の“至誠””. WANI BOOKS NewsCrunch(ニュースクランチ). 2024年8月27日閲覧。
  2. ^ 公職追放の該当事項は「陸軍中佐」。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、60頁。NDLJP:1276156 
  3. ^ 官報号外第34号(昭和53年5月2日)
  4. ^ 官報本紙第17731号(昭和61年3月24日)
  5. ^ 藤原岩市追憶(213‐214頁)1988年
  6. ^ 藤原岩市追憶(193頁)1988年
  7. ^ 藤原岩市追憶(239 頁)1988年
  8. ^ 清流:陸士第四十三期生史(39頁)1970
  9. ^ ワールドインテリジェンスVol7(102 頁)2007年
  10. ^ 清流:陸士第四十三期生史(39頁)1970
  11. ^ 藤原岩市追憶(60頁)1988年
  12. ^ 藤原岩市追憶(200頁)1988年
  13. ^ 森山康平, 栗崎ゆたか『証言記録大東亜共栄圏 : ビルマ・インドへの道』(48頁)1976年
  14. ^ 藤原岩市追憶(30‐31 頁)1988年
  15. ^ 森山康平, 栗崎ゆたか『証言記録大東亜共栄圏 : ビルマ・インドへの道』(49頁)1976年
  16. ^ 増岡敏和『謀略放送と1人の男 : 元NHK職員の証言』(140‐142頁)1982年
  17. ^ 森山康平, 栗崎ゆたか『証言記録大東亜共栄圏 : ビルマ・インドへの道』(47頁)1976年
  18. ^ 川本彰『日本人と集団主義 : 土地と血』(194頁)1982年
  19. ^ ワールドインテリジェンスVol7(116 頁)2007年
  20. ^ 楳本捨三『日本大謀略戦史』(90頁) 1971年
  21. ^ 軍縮市民の会『軍縮問題資料 (2)(171)』(61‐62頁)2007年
  22. ^ ワールドインテリジェンスVol7(106‐107頁)2007年
  23. ^ 田中正明『アジア風雲録 (東京選書)』(136頁)1956年
  24. ^ 田中正明『アジア独立への道』(324‐326頁)1991年
  25. ^ NHK取材班 編『あの時、世界は… : 磯村尚徳・戦後史の旅 1』(259頁)1979年
  26. ^ 松本明重『志道花心録 第4巻 (春秋の心)』(338‐339頁)1982年
  27. ^ 小俣行男『侵掠 : 現代のドキュメント 続』(205‐206頁)1982年
  28. ^ 藤原岩市追憶(60頁)1988年
  29. ^ 高木俊朗『抗命―インパール 2』(277-278頁)文藝春秋、1976年
  30. ^ 藤原岩市『留魂録』(204-207頁)1986年
  31. ^ 「赤旗」特捜班 『影の軍隊 : 「日本の黒幕」自衛隊秘密グループの巻』(196-197頁)1978年
  32. ^ 松本重夫『自衛隊 「影の部隊」情報戦秘録』(142-143頁)2008年
  33. ^ 松本重夫『自衛隊 「影の部隊」情報戦秘録』(143-145頁)2008年
  34. ^ 松本重夫『自衛隊 「影の部隊」情報戦秘録』(146-147頁)2008年
  35. ^ 藤原岩市『留魂録』(443頁)1986年
  36. ^ 新潟日報社『民選知事五代 : 県政支配の構図 下巻』(141頁)1978年
  37. ^ 陸修偕行社『偕行 : 陸修偕行社機関誌 (221);11月号』(5-6頁)1969年
  38. ^ ジョイス・C.レブラ『東南アジアの解放と日本の遺産』(250頁)1981年
  39. ^ ワールドインテリジェンスVol7(114 頁)2007年
  40. ^ 松本明重『志道花心録 第1巻 (日本の心)』(532頁)1974年
  41. ^ 陸修偕行社『偕行 : 陸修偕行社機関誌 (290);7月号』(54頁)1975年
  42. ^ 木ノ下甫 藤原岩市『戦後史を見直す』(47頁)1979年
  43. ^ 『NHK特集 あの時・世界は… 磯村尚徳・戦後世界史の旅』”. NHKアーカイブス. 2024年12月21日閲覧。
  44. ^ 木ノ下甫 藤原岩市『戦後史を見直す』(32-50頁)1979年
  45. ^ NHK取材班 編『あの時、世界は… : 磯村尚徳・戦後史の旅 1』(258-259頁)1979年
  46. ^ 『アーカイブス編:貴重な映像資産を次世代に伝える』”. NHKアーカイブス. 2024年12月21日閲覧。
  47. ^ ワールドインテリジェンスVol7(103 頁)2007年
  48. ^ 動向社『動向 (10)(1583)』(46頁)1998年
  49. ^ 藤原岩市『留魂録』(371頁)1986年
  50. ^ 陸修偕行社『偕行 : 陸修偕行社機関誌 (235);1月号』(8-9頁)1971年
  51. ^ 陸修偕行社『偕行 : 陸修偕行社機関誌 (299);4月号』(15頁)1976年
  52. ^ 松本明重『志道一貫 : 日民同東亜特別慰霊研修派遣団記録』(22-23頁)1976年
  53. ^ 松本明重『志道一貫 : 日民同東亜特別慰霊研修派遣団記録』(15-17頁)1976年
  54. ^ 週刊サンケイ 臨時増刊号 陸軍中野学校破壊殺傷教程(60頁)1973年
  55. ^ 藤原岩市追憶(84 頁)1988年
  56. ^ 藤原岩市追憶(3 頁)1988年
  57. ^ 日本・パキスタン協会『パーキスターン = پاکستان : periodical of the Japan-Pakistan Association (82)』(20-22頁)1985年
  58. ^ 陸修偕行社 『偕行 : 陸修偕行社機関誌 (425);5月号』(66 頁)1986年
  59. ^ 軍人3名の伝記。他は樋口季一郎小野寺信