藤原家通 (権中納言)
藤原 家通(ふじわら の いえみち)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿・歌人。藤原北家難波家、中納言・藤原忠基の子。官位は正二位・権中納言・左衛門督。六角小路に邸宅があったことから「六角」と号する。 経歴久安4年(1145年)に従五位下に叙され、仁平4年(1154年)に従五位上に進む。保元元年(1156年)正月に左兵衛佐、同年九月に左近衛少将となり、翌年正五位下に進む。保元4年(1159年)に従四位下に進む。永暦元年(1160年)に従四位上右近衛中将となる。 応保3年(1163年)に正四位下に進み、長寛2年(1164年)に二条天皇の蔵人頭を兼ねて頭中将となり、六条天皇の即位後も留任した。仁安元年(1166年)に参議に任じられ、2年後に従三位に進む。承安2年(1172年)に正三位に進む。治承三年の政変後に藤原光能に替わって右兵衛督を兼ね、寿永元年(1181年)に従二位に進み左兵衛督に転じる。翌年権中納言兼右衛門督に任じられる。元暦元年(1184年)に正二位に進み、文治2年(1186年)に左衛門督を兼ねる。翌年、権中納言兼左衛門督を退き、間もなく死去した。 笛や和歌にも秀で、『千載和歌集』と『新古今和歌集』にそれぞれ2首採録されている。また、『角金記』と呼ばれる日記(通称の「六角金吾(=衛門督)」に由来)があったとされるが、現存していない。 系譜 |