藤原公光
藤原 公光(ふじわら の きんみつ)は、平安時代後期の公卿・歌人。藤原北家閑院流、権大納言・藤原季成の長男。官位は従二位・権中納言。 経歴大治5年(1130年)に権大納言・藤原季成の嫡子として生まれ、幼年にして従五位下に叙爵。 久安4年(1148年)に19歳で侍従に初任。久安5年(1149年)に正五位下に叙せられ、翌年左近衛権少将に転任。仁平2年(1152年)に従四位下、久寿2年(1155年)に後白河天皇の即位に伴って正四位下と順調に位を進め、保元元年(1156年)右近衛権中将、次いで保元2年(1157年)蔵人頭と要職を歴任する。 保元3年(1158年)に参議に任ぜられて公卿に列する。同年二条天皇の即位に伴い侍従に任ぜられて天皇の身辺に仕えると共に、姉妹・成子が後白河上皇の寵愛を受けたこともあって、院司として上皇にも接近した。院司として保元4年(1159年)従三位、永暦2年(1161年)正三位、長寛元年(1163年)従二位と昇叙され、権中納言・検非違使別当・左衛門督と顕要の職を占めた。 しかし、長寛3年(1165年)父・季成の死後、永万2年(1166年)権中納言・左衛門督の職を解かれて失脚する。その理由は不明だが、甥の以仁王が前年出家せずに元服しており、子の憲仁親王(後の高倉天皇)の即位を目論む建春門院平滋子の恨みを買ったともいわれる[2]。その後は10年以上散位となり、治承元年(1177年)の末から病となった[3]。翌年正月3日に出家して、同月12日に薨去した[1]。享年49。 管絃・歌謡・漢詩などに秀でたほか、『千載和歌集』以下の勅撰和歌集に8首が入集する歌人でもあった。 官歴※以下、『公卿補任』の記載に従う。
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