薮内正幸薮内 正幸(やぶうち まさゆき、1940年〈昭和15年〉5月23日 - 2000年〈平成12年〉6月18日[1])は、日本の動物画家、絵本作家。 概要絵の技術は独学だが動物学者の今泉吉典の元で標本画の基礎を習得。「僕は毛描き」と言うほど鳥や動物の羽毛や毛の一本一本まで丹念に描くため、図鑑の挿絵は精緻でありながら親しみ深く暖かい[2]。描いた絵は1万点を超える。サントリーによる「愛鳥キャンペーン」の新聞広告で1973年(昭和48年)度朝日広告賞第2部グランプリ[3]、1983年『コウモリ』で第30回サンケイ児童出版文化賞、1989年(平成元年)『日本の恐竜』が第9回吉村証子記念日本科学読物賞、1992年『野鳥の図鑑』で国際児童図書評議会(IBBY)オナーリスト賞受賞。 生涯鳥や動物を愛し、それらを精魂込めて描き続けた。私生活では、快活で冗談好き、気さくな人柄のため、友人たちから親しみを込めて「ヤブさん」と呼ばれた[4]。鳥や動物たちの生きる場としての環境保護にも深い関心を持っていた。 上京まで1940年、大阪府港区に生まれる。大阪学芸大学附属天王寺小学校(現・大阪教育大学附属天王寺小学校)、大阪市立天王寺中学校を経て、1959年大阪府立夕陽丘高等学校を卒業。 小学生のころから鳥や動物を見たり描いたりするのが好きで、動物園に行くと目当ての動物の前に行ってはいつまでもずっと見続けていたという。小学3年生当時に動物学者の高島春雄と手紙のやり取りを始め、のち今泉吉典、鷹匠の丹羽有得らとも文通するようになる[1][5]。高校3年の時には、大正から昭和にかけて活躍した小林重三の鳥類画に感動し、『鳥類原色大図説』[6]にある小林のワシタカ類の挿絵をすっかり模写するまでになった[7][8][9]。 このころ、福音館書店の編集長松居直は「世界で最も詳しい動物図鑑[10]」の刊行を企画し、挿絵の描き手を探していた。松居に相談を受けた今泉がまだ高校生の薮内から届いたはがきのイラストを見せて推薦。松居は大阪に赴き薮内を説得、薮内は迷ったものの、己の好きな道をゆくべしと恩師に諭されて、高校を卒業後上京。動物画の描き手として福音館書店に入社し、動物画家としての勉強を開始する[11][10]。 福音館書店時代動物図鑑1959年、薮内は福音館書店に入社し松居宅に下宿した。当時の福音館書店は小さな会社で、同僚に今江祥智や水口健[12][13]などがいて[14]、仕事場である編集部は千代田区水道橋の木造民家の2階で、1956年に創刊された月刊絵本こどものともや月刊誌『母の友』、絵本、児童書などの編集が進行していた。その傍らで薮内の動物画修行は始まった。国立科学博物館の今泉吉典のもとに通って指導を受けながら動物の骨格や剥製のデッサンを繰り返して動物の骨格や筋肉の動きを学び、動物図鑑の標本画を描く力をつけていく。国立科学博物館と上野動物園に通う日々が続いた。1年の地道な努力の末、薮内は動物図鑑の挿絵画家としての技量を習得していた[11][5]。1960年に今泉が著した『原色日本哺乳類図鑑』(宮本孝 画、保育社)では歯や耳介の凸版画を描いている。1962年には鯨類学者西脇昌治が著し薮内が挿絵を描いた『鯨類・鰭脚類』が脱稿上梓。小原秀雄、今泉吉典による『世界哺乳類図説〈食虫目・皮翼目〉』と『世界哺乳類図説〈単孔目・有袋目〉』も脱稿。 しかし1964年、福音館書店の「世界哺乳類図説」は企画半ばで中止となる。当時まだ小さな出版社だった福音館書店は、絵本出版に全力を注ぐべきであり、網羅的な動物図鑑という大事業にさく余力はないという経営判断によるものだった。松居はすでに脱稿していた部分については稿料を払った上で執筆者に原稿をゆだねた[10][15]。 動物図鑑のために描かれた薮内の挿絵はしばらく日の目を見なかったが、やがて『鯨類・鰭脚類』が東京大学出版会から1965年9月に出版される[15]。1966年には、動物学者小原秀雄、今泉吉典による『世界哺乳類図説』の〈食虫目・皮翼目〉編と〈単孔目・有袋目〉編が新思潮社から出版される。 また1979年に、これらの延長上に企画された鹿間時夫著『古脊椎動物図鑑』も薮内の挿絵で出版される。 絵本と挿し絵1964年、上京の目的だった図鑑挿絵の仕事がなくなってとまどい落胆する薮内に、松居はソビエト連邦(現・ロシア連邦)の動物文学者ビアンキの作品「小ねずみピーク」と「くちばし」を示して絵本制作を勧める。 1965年10月、初めての絵本『くちばし』がこどものとも115号として配本される。さまざまな形のくちばしをもつ鳥たちが精確かつ生き生きとえがかれた作品となった。松居はこの絵本を「処女作とは思えぬ重厚な作品」「新しい特筆すべき動物絵本作家の登場」と高く評価する[10]。 1966年11月、福音館の幼児絵本『どうぶつのおやこ』(薮内画)が出版される。「子どもがはじめてであう絵本」として、背景を省略し余白を生かして動物たちの姿を明確にイメージ化した「ほんものを感じさせることができる絵」であり、そのころ主流であったおもちゃのような動物絵本とは一線を画するものであった[10]。 1969年4月、松居は子どものための新しい科学の絵本として「かがくのとも」を企画し、その創刊号に、科学的かつ子どもの好奇心を誘う力を持つ絵が描ける画家として薮内を起用し、彼の挿絵による『しっぽのはたらき』(川田健文、今泉吉典監修)を配本する[16][10]。 1970年の西脇昌治著『くじら』(福音館の科学の本)では、科学の絵本としての精確さを持ちながら「劇的な物語性のある画面[10]」を作ることに成功している。薮内も会員であった日本哺乳動物学会の会誌「哺乳動物学雑誌」によれば,同じく会員であった西脇昌治の所属が1965年に東京大学海洋研究所に変更されている[17]。 1970年、斎藤惇夫の児童文学「ガンバの冒険」シリーズ第一作『グリックの冒険』(斎藤惇夫 作、浜書店)の挿絵を描く。斉藤は「動物を誤りなく正確に、しかも生き生きと躍動的に、さらに物語の担い手としての表情も描くことのできる画家」と薮内を評し、さらに薮内から八丈島のイタチの由来や絶滅に瀕しているニホンカワウソの話を聞いたことが、のちの『冒険者たち』や『ガンバとカワウソの冒険』を生むきっかけになったと回想する[18][19]。 私生活1965年3月、福音館書店での同僚、互井幸枝[20]と結婚し北多摩郡国立町(現在の国立市)に住む[17]。この地で今江祥智、田島征三と親しく付き合う。1969年9月、長男竜太が誕生。1971年、福音館書店から独立し、フリーの動物画家となる。 独立後サントリーは日本鳥類保護連盟の協力を得て「サントリー愛鳥キャンペーン」を1973年5月に開始した。毎月1回、新聞紙面を大きく使った野鳥イラストの新聞広告を通して環境保護を訴えるのである。薮内はサントリーからこのキャンペーンのためにイラストを描くよう依頼を受けて、このキャンペーンの挿絵やポスターをすべて担当することになる。自社製品を出さずに鳥と環境の保護を訴える広告は、当時としては画期的なもので、愛鳥キャンペーンの第1回新聞広告は1973年度朝日広告賞第2部グランプリを受賞する[21] [22] [23][24]。以後、このキャンペーンは1985年(昭和60年)5月まで13年間にわたって続くことになる[25]。 1973年から1980年にかけて『日本の野鳥』シリーズ全6巻が福音館書店から刊行される。このシリーズは監修を頼んだ日本野鳥の会の高野伸二、担当編集者と共に、北海道、長野、伊良湖岬など野鳥の姿を追って各地を取材旅行して作成され[26]、図鑑として正確で分かり易く、かつ絵本としても画集としても美しく楽しい作品となっている[10]。 1975年1月、記念切手「自然保護シリーズ」「アホウドリ」が薮内のイラストで発行される。1975年3月、山階鳥類研究所がレッド・データ・ブックに報告している日本のデータをまとめて日本語版として刊行した『この鳥を守ろう それが人の生命を守る』(山階鳥類研究所 編 1975年)でも鳥のイラストを描く。 1977年から1991年にかけて出版された『世界の生物 分類と飼育1~10 II』(東京動物園協会発行)で挿絵を担当。 1977年、福音館書店から2-3歳児向けの年少版こどものともが創刊される。この年12月号に小森厚 の文と薮内の挿絵で『どうぶつのおかあさん』が通巻第9号として配本される。 1983年『コウモリ―地下実験室からの報告』(庫本正著 薮内正幸画 福音館書店)が第30回サンケイ児童出版文化賞を受賞[27]。 1989年(平成元年)、福音館のかがくの本『日本の恐竜』 (長谷川善和著、薮内正幸画)が第9回吉村証子記念日本科学読物賞を受賞。 1992年『野鳥の図鑑―にわやこうえんの鳥からうみの鳥まで』(福音館の科学シリーズ 1991年)(「日本の野鳥〈全6巻〉」をまとめた改訂増補版)で国際児童図書評議会(IBBY)オナーリスト賞(Part 2: Illustration)を受賞[29]。 鳥類図鑑以外にも、岩崎書店の「絵本図鑑シリーズ」で、1991年に『野や山にすむ動物たち―日本の哺乳類』、1994年に『海にすむ動物たち―日本の哺乳類 II』を作成。カラー挿絵と白黒の図を駆使した美しく分かり易い図鑑となっている。 このころの薮内は、絵図鑑に挿絵を描く傍ら、赤ちゃんのための動物絵本をしばしば作成している。薮内の赤ちゃんむけの絵本はしばしばブックスタート事業用の絵本に選ばれている[30]。 1994年には、兵庫県豊岡市で開かれたコウノトリ復活のための国際シンポジウムのポスターに挿絵を提供している[31]第一回の『コウノトリ未来・国際かいぎ 報告書』の表紙にも薮内の筆によるコウノトリが大きく描かれているほか、豊岡市民会館の西側壁面のレリーフも薮内のイラストをもとに作成された[32]。 2006年3月、薮内最初の絵本『くちばし』(1965年)が改訳の上、表紙、見開きを差し替えて『くちばしーどれが一番りっぱ?』として再刊される。 主な仕事・作品
薮内正幸美術館
薮内正幸美術館は薮内正幸の原画を所蔵・展示する専門美術館。冬季は休館する[40]。 薮内が2000年(平成12年)に死去した後、岩崎書店で薮内の編集担当だった飯野寿雄が原画の散逸を懸念して、美術館建設を遺族や関係者に呼び掛けて薮内の原画を所蔵・展示する薮内正幸美術館を企画[41]。山梨県北杜市白州町のサントリー白州蒸溜所の隣に町有地を借りうけて建設開始し、2004年に開館にこぎつけた[42]。初代館長は飯野寿雄[43]。のち夫人の薮内幸枝が館長を務め、2006年に夫人が死去した後、長男藪内竜太が館長に就任した。美術館玄関の看板は、薮内正幸と親交の深かった田島征三の筆である[44]。 利用方法
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク |