薩 妙観(さつ/さち の みょうかん、生没年不詳)は、奈良時代前期の女官。氏姓は薩(無姓)のち河上(かわかみ)忌寸。位階は正五位下。
経歴
持統天皇の時に音博士をつとめた薩弘恪の一族のものと思われる。
養老7年(723年)1月、夫人藤原宮子ほか女王・女官の叙位の際に従五位上[1]。
翌神亀元年(724年)5月、「河上忌寸」の氏姓を賜与され[2]、天平9年(737年)2月に正五位下[3]。
このほかにも『万葉集』に以下の和歌が収録されている。
薩妙観 、(先太上天皇、元正上皇の)詔に応
(こた)へて和
(こた)へ奉
(まつ)る歌一首
ほととぎす ここを近くを 来鳴きてよ 過ぎなむ後(のち)に 験(しるし)あらめやも
(ほととぎす ここの近くで 来鳴いておくれ ここから去ったら 鳴いても甲斐があろうか)
[4]
天平元年(
729年)の
班田の時に、使ひの葛城王(=
橘諸兄)、
山背国より薩妙観
命婦等の所に贈りし歌一首(芹子
(せり)の裹
(つと)(=包み)に副ふ)
あかねさす 昼は田賜(た)びて ぬばたまの 夜(よる)の暇(いとま)に 摘める芹これ
((あかねさす)昼は班田に追われ (ぬばたまの)夜の寸暇に 摘んだ芹ですよ これは)
薩妙観の報(こた)へ贈る歌一首
ますらをと 思へるものを 大刀佩きて 可爾波の田居(たゐ)に 芹そ摘みける
(ますらおと 思っておりましたのに 大刀を佩いて 綺田
(かばた)の田んぼで 芹なぞお摘みになって
[5]
天平9年以降の事績は不明である。
官歴
『続日本紀』などによる。
脚注
- ^ 『続日本紀』巻第九、元正天皇 養老7年正月10日条
- ^ 『続日本紀』巻第九、元正天皇 神亀元年5月13日条
- ^ 『続日本紀』巻第十二、聖武天皇 天平9年2月14日条
- ^ 『万葉集』巻第二十、4438番
- ^ 『万葉集』巻第二十、4456番
参考文献