董俊董 俊(とう しゅん、1186年 - 1233年)は、13世紀前半にモンゴル帝国に仕えた漢人将軍の一人。字は用章。子は董文炳・董文蔚・董文用・董文直・董文毅・董文振・董文進・董文忠・董文義。 略歴後にトルイ家の投下領かつ漢人四大軍閥の一角たる史家の根拠地となる、真定府の藁城に生まれた[1]。董俊の祖先についてはほとんど記録がなく、地方の大族などではなく中小規模の農民の出であったと見られる[1]。 幼い頃は耕田に励み、長じると書史の経験を積み、騎射と得意とした[1]。金朝の貞祐年間(1213年 - 1217年)、モンゴル帝国の南下に備えて藁城でも募兵が行われ、董俊はこれに応じた。この時募兵に応じた者たちの中から「射撃で的に当てた者を将に抜擢する」こととされ、多くの者が失敗する中で董俊のみは一発で的に当てることに成功し、董俊は将に抜擢された[1]。しかし、1215年(乙亥)にはモンゴル帝国の左翼万人隊長の国王ムカリ率いる軍勢が南下し、董俊は遂にこれに降った[1][2]。 1219年(己卯)、金の将軍の武仙が真定を拠点に反モンゴル活動を行うと、周囲の諸城の多くがこれに味方したため、これに対処するため董俊は知中山府事に抜擢された[1]。董俊は夜間に真定に入って武仙を真定から追放したため、一度寝返った諸城も再びモンゴル帝国に来附した[3]。1220年(庚辰)には金朝の援軍を受けた武仙を黄山で破り、武仙は脱走したものの困窮し、最終的にムカリに降伏した。ムカリはこの董俊の功績を評価して龍虎衛上将軍・行元帥府事とし、藁城に駐屯させた[1][4]。 また、董俊は武仙が将来的にはモンゴルを裏切るであろうことを予想し、これに備えるようムカリに進言した。ムカリは董俊の進言を受けいれるとともに左副元帥の称号を授け、また董俊の駐屯する藁城県を永安州と改めた。果たして1225年(乙酉)、武仙は史天倪を殺害してモンゴルを裏切り、再び真定を拠点に反モンゴル運動を始めた。周囲の郡県も武仙に味方し董俊は孤軍となったが、董俊は千人に満たない兵を指揮して永安州を守り抜いた[1]。更に董俊は武仙の軍勢を敗走させて真定を奪還し、真定には新たに史天沢が入った[1]。これが漢人四大軍閥としての史家の繁栄の始まりとなる[5]。 1229年(己丑)、モンゴル帝国でオゴデイが第2代皇帝として即位すると、即位後最初の大事業として金朝遠征が始まり、董俊もこれに従軍した[6]。1232年(壬辰)、三峰山の戦いで金軍の主力を破ったモンゴル軍は金の首都の開封を包囲した(開封攻囲戦)。1233年(癸巳)、追い詰められた金の哀宗は帰徳に逃れたが、これを董俊らが追撃した[6]。ところが、金軍は夜間に董俊の軍勢に奇襲をかけ、董俊はこの戦いで戦死してしまった[6]。享年は48歳であった[7]。 藁城董氏
脚注
参考文献
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