萩原朔美萩原 朔美(はぎわら さくみ、1946年11月14日 - )は、日本の映像作家、演出家、エッセイスト。多摩美術大学名誉教授。前橋文学館館長。男性。旧姓、大塚[1]。 来歴小説家でダンサーの萩原葉子は母[2]、詩人の萩原朔太郎は母方の祖父[2]。 東京都生まれ[2]。日本大学櫻丘高等学校の同級生に中村誠一がいる[3]。1966年4月、日本大学芸術学部文芸学科中退[4][5]。そのころより、ジャズ喫茶ビザールでボーイのアルバイトを行う[6]。そこでの出会いから、1967年の寺山修司主宰の演劇実験室「天井桟敷」の立ち上げに参加[5]。1967年4月に旗揚げ公演となる『青森県のせむし男』で初舞台を踏む。その後、丸山明宏(美輪明宏)との共演作『毛皮のマリー』での美少年役が大きな話題となる。 俳優活動の後、1968年の『新宿のユリシーズ』にて演出を担当。以降同劇団の演出家を務めるようになる。代表作に『書を捨てよ町へ出よう』『時代はサーカスの象にのって』など。また1969年には、かつて自身が出演した『毛皮のマリー』の演出を行い、ドイツのフランクフルトで開催された国際実験演劇祭に招待される。 実験演劇室天井桟敷在団中から映像制作を開始。退団後も、時間や記憶をテーマにした映像作品を制作。榎本了壱、山崎博、安藤紘平らとともに実験映画作品を精力的に制作、世界各地で上映会が開催される。 1970年に演劇実験室天井桟敷を退団[5]。1970年から1974年にかけて山口勝弘や中谷芙二子らの主催するビデオひろばに参加。 1973年8月アメリカ国務省の招聘により渡米。帰国後、アメリカ文化センターでビデオアートの現在についての講演を行う。また、版画作品、写真作品など様々なメディアを使いながら作品制作を行う。 1974年8月に株式会社エンジンルームを設立(1985年10月、解散)。代表取締役に就任。1975年、雑誌『ビックリハウス』をパルコ出版より創刊し、初代編集長を務める[7]。パルコ文化、渋谷系サブカルチャーといった文化を生みだし、牽引する。 1978年、イメージフォーラム映像研究所講師に就任(現在に至る)。 1981年、多摩美術大学芸術学科非常勤講師、1982年に同大学専任講師、1988年に同大学助教授、1993年に同教授就任。1990年、東京アナウンス学院講師に就任。2001年、多摩美術大学造形表現学部映像演劇学科教授に就任。 2002年、桜美林大学非常勤講師に就任(2006年まで)、東北芸術工科大学非常勤講師に就任(2006年まで)。2007年、多摩美術大学生涯学習センター長に就任。2011年、多摩美術大学造形表現学部映像演劇学科長、2013年造形表現学部長に就任(2016年度まで)。 2017年3月31日、多摩美術大学を定年退職した。同年4月1日、多摩美術大学名誉教授。 2021年、太田市美術館・図書館美術作品収蔵委員就任。 2022年、アーツ前橋アドバイザー[8]、金沢美術工芸大学客員教授に就任。同年、版画や写真、アーティストブックなどの120作品が世田谷美術館に収蔵された[7]。 2023年7月、前橋市文化芸術活動顧問に就任。 上記のほか、日本映像学会員(2015年まで)、日本文芸家協会会員、全税共文化財団評議員、愛知文化情報センター専門委員会委員、工芸高等学校定時制課程学校運営連絡協議会委員、公益財団法人せたがや文化財団評議員などを歴任。 人物1980年前後から、空手を趣味とし、小説家今野敏ら新宿ゴールデン街での飲み仲間たちと「常心門空手」の支部「空手愛好会 悟空」創設、その後、照明家海藤春樹らと「空手愛好会 空海」を主宰。美学者谷川渥らが参加している。 2010年11月1日より萩原朔美個人サイトにて、自身の体験を元に書かれたウェブエッセイ『加齢黄斑変性になった』の連載を開始。2011年1月5日より、萩原朔美個人サイトにて、ウェブエッセイ『定点観測のすすめ』の連載が開始された。(2017年現在はウェブサイト移行のため終了) 舞台天井桟敷時代
退団後
映像作品
映画
単著
共著
監修
ブックデザイン
写真集
雑誌
新聞
個展
グループ展
上映
パブリックコレクション
受賞歴
脚注
外部リンク |