荒木元清
荒木 元清(あらき もときよ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、馬術家。 生涯荒木村重の親戚の家系に生まれ、初めは村重の家臣として、花隈城主となっていた[2](18,000石を領したという[3])。 天正6年(1578年)10月に村重が突如、織田信長に対して反旗を翻した(有岡城の戦い)際、これに同調する。その後、劣勢となって有岡城、尼崎城(大物城)から逃れてきた村重・村次父子を花隈城に迎え入れたが、同8年(1580年)、花隈城に攻めてきた池田恒興らの攻勢に耐えきれず城は開城(花隈城の戦い)、脱出した元清は備後国鞆に逃れた。 大坪流の斎藤好玄(さいとう よしはる、斎藤安芸守)より弓術を伴わない馬術を学び[3]、それを基にして、自身の苗字を冠した荒木流(荒木流馬術)を新たに創始したとされる[3]。 天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が没し、羽柴秀吉が台頭すると、秀吉に昔の罪を許されて家臣に迎えられる。文禄4年(1595年)、豊臣秀次事件に連座して追放され、流罪となったが、のちに赦された。 慶長3年(1598年)の秀吉の死後は京都に隠遁し、同15年5月23日に死去。享年75[4][3]。 荒木流はその後、四男の元満(もとみつ、十左衛門)によって継承された。 系譜
脚注出典 |