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花山院家長
凡例
花山院家長
時代
鎌倉時代
中期
生誕
建長
5年(
1253年
)
死没
文永
11年
7月2日
(
1274年
8月5日
)
官位
従二位
、
権中納言
主君
後嵯峨上皇
→
後深草天皇
→
亀山天皇
→
後宇多天皇
氏族
花山院家
父母
父:
花山院通雅
、母:
藤原国通
の娘
兄弟
家長
、
家教
、
通定
、雲雅、円雅
テンプレートを表示
花山院 家長
(かさんのいん いえなが)は、
鎌倉時代
中期の
公卿
。
太政大臣
・
花山院通雅
の長男。
官位
は
従二位
・
権中納言
。
経歴
以下、『公卿補任』、『尊卑分脈』の記事に従って記述する。
建長
7年(
1255年
)1月5日、叙爵。
正嘉
元年(
1257年
)12月20日、
従五位
上に昇叙。
正嘉2年(
1258年
)1月6日、
正五位
下に昇叙。同年3月8日、
従四位
下に昇叙。
正元
元年(
1259年
)11月16日、
左中将
に任ぜられる
[
1
]
。同年12月25日、従四位上に昇叙。
正元2年(
1260年
)3月29日、武蔵権介を兼ねる。
弘長
2年(
1262年
)1月5日、
正四位
下に昇叙。なお、同日に弟の
家教
が叙爵されている。また、同年7月16日には父・通雅が
右大将
に任ぜられている。
文永
3年(
1266年
)2月1日、土佐介を兼ねる。
文永5年(
1268年
)8月25日、春宮権亮を兼ねる。同年12月2日には父・通雅が
内大臣
となる。
文永6年(
1269年
)1月5日、
従三位
に叙せられる。中将は元の如し。同年4月に父・通雅が
右大臣
に転任。
文永8年(
1271年
)3月21日に父・通雅が右大臣を辞し、同月27日代わりに家長が
参議
を経ず権中納言に任ぜられる。同年4月8日、勅授帯剣を許される。
文永9年(
1272年
)
正三位
に昇叙か。
文永11年(1274年)1月7日、
従二位
に昇叙。同年7月2日、薨去。
脚注
[
脚注の使い方
]
^
『
公卿補任
』によれば元侍従
参考文献
『
公卿補任
』(新訂増補国史大系)
吉川弘文館
黒板勝美
、国史大系編集会(編) ※
文永
6年(
1269年
)に家長が
非参議
従三位となった時以降の記事。
『
尊卑分脈
』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※「花山院家長」および「
花山院通雅
」の項。