花乃湖 健(はなのうみ けん、1960年12月16日 - )は、秋田県南秋田郡井川町出身で放駒部屋(入門時は花籠部屋)に所属した元大相撲力士。本名は澤石 健(さわいし けん)。最高位は西小結(1987年5月場所・1989年3月場所)。現役時代の体格は181cm、140kg。得意手は押し、寄り切り、突き落とし[1]。
来歴・人物
実家は農家。井川小学校在学時は野球をしていたが、体の大きさを見込まれて井川中学校では相撲部に勧誘され、同部で活躍した。そして、同郷(井川町出身)であった11代花籠親方(元前頭3・大ノ海久光)のスカウトを受け、中学校卒業後に花籠部屋へ入門。本人は中卒入門を躊躇っていたが、決意を固めて1976年5月場所で初土俵を踏んだ[1]。
なお、同期生には、後の十両・大竜がいる。
順調に出世し、1983年9月場所で十両昇進、1985年3月場所で新入幕を果たした[1]。また、1987年5月場所と1989年3月場所では、三役(小結)昇進を果たしている(両場所とも負け越しに終わり、関脇への昇進は成らなかった)。
低い立合いから左右の強いおっつけと巧みな前捌き、もろ差しあるいは右を差して鋭く寄る取り口が得意[1]で、時折突き落としや肩透かしも見せた。取り口に派手さはないが、相撲の基本に忠実であり、玄人好みの力士であった。八百長を告発した板井圭介によると、ガチンコ力士であったと言われている。
1987年から1988年にかけての全盛期には安定した成績で幕内上位に定着し、千代の富士や北勝海、若嶋津、朝潮、小錦らが苦手とするなど活躍した。
ところが、現役晩年は故障が目立ち、腰部椎間板ヘルニアを患ったことが致命傷となって1989年7月場所直前に引退した。
なお、千代の富士の53連勝は、花乃湖に勝った一番(1988年5月場所7日目)から始まっている。
11代花籠の遺族の希望により、引退後、年寄・花籠(13代目)を襲名。しかし、資金難から花籠の名跡を維持できず、翌年の引退相撲直後に廃業した[2]。
その後、秋田市山王地区で相撲料理店「ちゃんこ花乃湖」を開いたが、妻の実家である「プラザホテル二合半」(北海道空知郡南幌町)の後継を頼まれ閉店。2018年現在は引き続き「プラザホテル二合半」を経営している[3]。
エピソード
- 何度も四股名を変えたが、11代花籠の現役名に因んだ大乃海を名乗ったり、郷里および花籠部屋の先輩でもある沢風(最高位・十両2枚目)と同じ名に改めていた時期もあった。
- 現在、芝田山部屋に所属している(入門時は放駒部屋)モンゴル人力士である魁(さきがけ)と同じ四股名を使用したこともある。
主な成績・記録
- 通算成績:402勝369敗55休 勝率.521
- 幕内成績:164勝185敗41休 勝率.470
- 現役在位:79場所
- 幕内在位:26場所
- 三役在位:2場所(小結2場所)
- 三賞:2回
- 技能賞:2回(1985年5月場所・1987年3月場所)[1]
- 金星:4個(千代の富士2個[1]、北勝海2個)
- 各段優勝
場所別成績
花乃湖 健
|
一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
1976年 (昭和51年) |
x |
x |
(前相撲) |
西序ノ口14枚目 5–2 |
東序二段94枚目 4–3 |
西序二段73枚目 2–5 |
1977年 (昭和52年) |
西序二段93枚目 5–2 |
東序二段53枚目 2–5 |
東序二段80枚目 3–3–1 |
東序二段94枚目 5–2 |
西序二段58枚目 3–4 |
東序二段67枚目 6–1 |
1978年 (昭和53年) |
東序二段7枚目 2–5 |
東序二段30枚目 3–4 |
東序二段42枚目 6–1 |
西三段目78枚目 3–4 |
東序二段5枚目 5–2 |
東三段目60枚目 5–2 |
1979年 (昭和54年) |
東三段目35枚目 3–4 |
西三段目51枚目 5–2 |
東三段目28枚目 1–6 |
西三段目58枚目 5–2 |
東三段目32枚目 6–1 |
西幕下56枚目 3–4 |
1980年 (昭和55年) |
東三段目9枚目 6–1 |
西幕下38枚目 3–4 |
西幕下48枚目 1–6 |
東三段目19枚目 4–3 |
西三段目4枚目 4–3 |
西幕下50枚目 5–2 |
1981年 (昭和56年) |
東幕下30枚目 2–5 |
東幕下55枚目 休場 0–0–7 |
西三段目31枚目 5–2 |
西三段目4枚目 4–3 |
西幕下52枚目 6–1 |
西幕下21枚目 4–3 |
1982年 (昭和57年) |
東幕下13枚目 2–5 |
東幕下28枚目 5–2 |
東幕下16枚目 4–3 |
西幕下13枚目 3–4 |
東幕下24枚目 4–3 |
西幕下15枚目 5–2 |
1983年 (昭和58年) |
東幕下5枚目 1–3–3 |
東幕下28枚目 6–1 |
東幕下10枚目 4–3 |
西幕下6枚目 優勝 7–0 |
西十両10枚目 8–7 |
西十両6枚目 6–9 |
1984年 (昭和59年) |
東十両8枚目 10–5 |
東十両3枚目 8–7 |
西十両2枚目 7–5–3 |
西十両3枚目 4–11 |
東十両10枚目 8–7 |
西十両7枚目 11–4 |
1985年 (昭和60年) |
東十両筆頭 9–6 |
西前頭13枚目 9–6 |
西前頭6枚目 8–7 技 |
東前頭2枚目 4–11 |
西前頭9枚目 8–7 |
東前頭3枚目 5–10 ★ |
1986年 (昭和61年) |
西前頭9枚目 10–5 |
東前頭3枚目 8–7 |
東前頭筆頭 1–6–8[4] |
東前頭14枚目 休場[5] 0–0–15 |
東前頭14枚目 10–5 |
東前頭5枚目 7–8 |
1987年 (昭和62年) |
東前頭7枚目 9–6 |
西前頭筆頭 10–5 技★ |
西小結 6–9 |
西前頭筆頭 4–11 |
西前頭8枚目 8–4–3[6] |
西前頭2枚目 6–9 |
1988年 (昭和63年) |
西前頭4枚目 8–7 ★ |
東前頭筆頭 6–9 ★ |
東前頭3枚目 7–8 |
西前頭4枚目 8–7 |
東前頭筆頭 5–10 |
東前頭5枚目 7–8 |
1989年 (平成元年) |
西前頭6枚目 10–5 |
西小結 0–10–5[7] |
西前頭10枚目 0–5–10[8] |
西十両8枚目 引退 0–0–0 |
x |
x |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
幕内対戦成績
※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。
改名歴
- 澤石(さわいし、1976年7月場所-1977年1月場所)
- 沢石(さわいし、1977年3月場所-1978年5月場所)
- 音羽嶽(おとわだけ、1978年7月場所-同年9月場所)
- 沢風(さわかぜ、1978年11月場所-1979年5月場所)
- 沢石(さわいし、1979年7月場所-1980年5月場所)
- 魁(さきがけ[9]、1980年7月場所-同年11月場所)
- 大乃海(おおのうみ、1981年1月場所-1982年3月場所)
- 花乃湖(はなのうみ、1982年5月場所-1989年7月場所(引退))
年寄変遷
- 花籠 健(はなかご けん、1989年7月-1990年6月(廃業))
脚注
- ^ a b c d e f ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p27
- ^ 第54代横綱・輪島は、1981年3月場所での引退後、12代花籠を襲名して花籠部屋を継承した。しかし、1985年2月、彼が年寄名跡・花籠を担保に入れて借金をしていたという前代未聞の事実が表面化。このことも、花乃湖改め13代花籠が早々と廃業する原因になったと考えられる。同年12月にはこれが引き金となって12代花籠が廃業し、花籠部屋が消滅したため、花乃湖や花乃国(後の花ノ国)ら同部屋所属の全力士は元大関・魁傑が率いる放駒部屋に移籍した。
- ^ 『バース・デイ』(TBSテレビ)2017年6月17日放送分より。
- ^ 左下腿外側筋腱部分断裂により7日目から途中休場
- ^ 公傷
- ^ 右踵部挫傷により5日目から途中休場、9日目から再出場
- ^ 腰部椎間板ヘルニアにより10日目から途中休場
- ^ 腰部椎間板ヘルニアにより5日目から途中休場
- ^ 「相撲レファレンス」の「かい」は誤記。
関連項目
参考文献
外部リンク