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色川氏
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"色川氏"
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(
2014年3月
)
色川氏
(いろかわし/いろがわし)は、
紀伊国
色川
における
豪族
、
国人衆
、
熊野水軍
。
桓武平氏
の流れをくみ、平、清水、色河とも称する。
歴史
平安時代末期
文治
元年(
1185年
)
紀伊勝浦
の
山成島
にて入水したと見せかけて落ちのびた
平維盛
を色川郷、藤綱要害の森に匿い、盛広、盛安の二児をもうけ、
室町時代
~
戦国時代
に続く
紀伊
国人衆
色川氏
の祖となったという
[
1
]
。
南北朝時代
延元
元年(
1336年
) 色川盛氏が
後醍醐天皇
の
綸旨
により
南朝
方として
新宮
、
那智
、
太地
などで兵船に乗り
足利尊氏
の親族である
石塔義房
等の軍勢と戦った
[
2
]
。
戦国時代から安土桃山時代
永禄
5年(
1562年
)
色川盛直
は紀伊国人衆として
畠山高政
に従い畿内侵攻、
教興寺の戦い
に参陣した
[
3
]
。
天正
2年(
1574年
)~天正6年(
1578年
) 色川郷、鎌ヶ峯城で色川盛直が
堀内氏善
に攻められるがこれを撃退した
[
3
]
。
天正13年(
1585年
)
豊臣秀吉による紀州攻め
において、堀内氏善が降伏すると色川氏も上方勢に帰順し領地を安堵された
[
3
]
。
文禄
元年(
1592年
)
文禄の役
において色川党枝連衆の色川三九郎が
藤堂高虎
に従って軍船で参陣した
[
4
]
。
慶長
5年(
1600年
)
関ヶ原の戦い
において色川三九郎は西軍に従い牢人となる
[
4
]
。
元和
5年(
1619年
) 色川氏は
紀州藩
主・
徳川頼宣
の
附家老
で
新宮城
主、
水野重央
に仕えた。
[
4
]
江戸時代
延宝
8年(
1680年
)
徳川光圀
は
大日本史
編纂のため
紀州
に
佐々宗淳
を遣わせた際に色川の地に伝わる色川文書を調べさせた
[
5
]
。
参考文献
^
色川盛成譲伝状
^
色川文書「色川盛氏軍忠状」
^
a
b
c
色川文書
^
a
b
c
色川三九郎伝記
^
大野文書
外部リンク
ふるさと色川 歴史紹介
日本の苗字七千傑-桓武平氏、平清盛流