良岑木蓮
良岑 木蓮(よしみね の いたび)は、平安時代初期の貴族。名は木連とも記される。大納言・良岑安世の長男。官位は従四位下・越前守。 経歴始め大学助に任官し、天長7年(830年)に父・安世が没したことから服喪のために辞職するが、翌天長8年(831年)従五位下・下野介に叙任される。下野介の任期を終えて帰京後、式部少輔を経て、承和3年(836年)従五位上・陸奥守に叙任。任期中に鎮守将軍・匝瑳末守と共に、民衆の鎮撫と蝦夷対策を目的に承和6年(839年)に1000名[1]、承和7年(840年)に2000名[2]の援兵を動員することを上奏し許されている。またこの間、承和4年(837年)右衛門佐を兼ね、承和5年(838年)正五位下に叙せられている。 承和8年(841年)左中弁に転任し、承和10年(843年)文室宮田麻呂に謀反の疑いがかけられた際には、宮田麻呂の邸宅の捜索に当っている。承和11年(844年)従四位下・越前守に叙任されるが、任期中の嘉祥2年(849年)6月28日卒去。享年46。最終官位は越前守従四位下。 人物身のこなしが淑やかで優雅であり、声望が高かった。良家の子弟であることを自負し、若い頃より功名を立てることを欲して、好んで変わった施策を行った。地方官を勤めていた際、諸神戸に対して、旧例に拠らず非常に詳細な部分まで見逃さないよう厳しく統制したが、同僚は反対して木連から隔たり承知しなかった。ついにこの失策により木連は咎めを受け、悔い改めたものの、治績はあげられなかったという[3]。 官歴『六国史』による。
脚注出典 |