船橋長真
船橋 長真(ふなばし ながざね)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武士、弘前藩士。 略歴元は笠原氏で、宇喜多秀家に仕えていた。関ヶ原の戦いの後、常陸国船橋村に居住し、以降、船橋姓を名乗った。後に津軽信枚に300石で仕えた。大館に住し津軽信義には幼少の頃から仕え、後さらに600石を加増された。 寛永8年(1631年)に信義が藩主となり、寛永10年(1633年)10月津軽へ帰国した。その時に供をしたが、高杉村まで迎えに来た国許の家臣に対し、下馬もせず、挨拶もなく、彼らの怒りを買った。寛永11年(1634年)7月、3代将軍・徳川家光の上洛に信義が供した際の帰路、家臣らの不満が爆発した。多くの重臣が長真の罷免を求め、町屋に立て籠った(船橋騒動)。この事件により、寛永13年(1636年)、伊予松山藩主・松平定行の許に、子・長仍と共にお預けになった。 長仍の子・勝之助は幼少であるため赦免され、母方の祖母に養育された。正保3年(1646年)に信義の小姓として召しだされ、笠原八郎兵衛皆定と名乗った。 子孫は笠原氏として、弘前藩に仕えた。 参考文献
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