結城直光
結城 直光(ゆうき なおみつ)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての武将。下総結城氏第8代当主。安房国守護。 生涯元徳2年(1330年)[1]、6代当主・結城朝祐の子として誕生。兄・直朝と同様、足利直義より偏諱を受けて直光と名乗る[注 1]。はじめ、小塙八郎太郎と称した(「結城系図」)[2]。 興国4年/康永2年(1343年)、兄で7代当主・直朝が関城での戦いで討死した後、家督を継いだ[3]。兄同様、足利尊氏(及び直義)に臣従したが、やがて尊氏・直義兄弟が対立すると(観応の擾乱)、尊氏派に属した。正平7年/観応3年(1352年)に新田義興・義宗らが上野国で挙兵したときも尊氏方に与するなど、直義派・南朝方武将との合戦で功を挙げた。 文和2年(1353年)、武蔵国の千台・平方荘を与えられた(「源威集」)[4][3]。 延文3年(1358年)5月、29歳のとき、復庵宗己のもとで出家した[5]。 正平23年/応安元年(1368年)にも上杉憲顕[注 2]の軍に従って、武蔵平一揆に乗じて挙兵した義宗を討伐している。これらの経緯から尊氏・義詮・足利義満の3代の将軍からの信任は厚く、直光はその信任を背景として常陸国に勢力を拡張し、官位も中務大輔に叙せられるなど、再び結城氏の全盛期を築き上げた。 また、少なくとも、応安2年(1369年)から至徳2年(1385年)までの間、安房国の守護職を務めたことが確認できる[6][3]。下総国千葉氏への牽制のためという[3]。 応永2年(1395年)、死去。67歳[1]。法名は華蔵寺殿天海聖朝居士[7]。子・基光が継いだ。 直光は文筆にも優れ、『源威集』の作者と言われている[8]。 脚注注釈出典参考文献
外部リンク
|