経国大典
経国大典(旧字体:經國大典、けいこくたいてん、경국대전、キョングクテジョン)とは、李氏朝鮮時代の政治の基準になった法典。『周礼(しゅうらい)』の六官制に倣い、吏典・戸典・礼典・兵典・刑典・工典の六典からなる。 朝鮮の初期は明の法典『大明律』(1397年)を依用、太祖の代の『朝鮮経国典』を使用していたが、世祖が、崔恒・盧思愼らに命じて、1460年に戸典、1461年に刑典、1469年の成宗の代に残りの4典を撰進することをもって完成した。 1470年、1471年、1474年、1485年に改訂・校正。なお、この1485年の礼典婚嫁条には、「宗室」(王族)は、同姓たる「李」姓と婚姻できないとの規定が見られる。 概要初代太祖、李成桂時代の1394年5月に、開国の功臣、鄭道伝が上程した『朝鮮経国典』を土台として、儒臣趙浚の主導による王朝最初の成文典『経済六典』が完成したのが1397年12月で、この時初めて、法治国家としての骨組みが定まった。李成桂には8人の息子がいたが、王位を側室の子供で8男の李芳碩に譲ろうと考えていた。しかし、他の王子との間で争いで、芳碩は5男の李芳遠に殺害された。この事件をきっかけに、庶子は官僚に登用してはならないと、朝鮮王朝の基本法典である「経国大典」に明文化され、高麗時代にはなかった庶子差別が合法化された。朝鮮時代は庶子(妾の子)がどんなに優れた資質を持っていても科挙(文科)を受けることができず、財産相続権も無くされた[1]。 続いて、太祖時代の『続六典』を踏まえ、世祖は「万世の法」としての「六典」の編纂を臣下に命じ、世祖在位中の1466年にほぼ完成するも、正式な制定には至らなかった。 編纂事業は睿宗・成宗代に引き継がれ、今日伝わる『経国大典』は、1485年正月に頒布されたものである。 完成施行まで、建国からほぼ一世紀を要した『経国大典』は、儒教的法治国家としての朝鮮王朝の原点をなす法体系である。 韓国人学者である鄭容和は、朝鮮王朝の建国者たちが東周を建設し、中原の大中華に次ぐ一つの小中華を建立するという「ある種の意志」があったことを指摘しており、これについて東北師範大学副学長の韓東育は、「(周(東周)の武王によって箕子は朝鮮に封ぜられたが、その東周を建設し、中原の大中華に次ぐ一つの小中華を建立するという意志が朝鮮王朝の建国者たちにあったという)こうした事実は、なぜ朝鮮が積極的に中華秩序、すなわち中国を中心とした世界秩序に参与したのかを理解させる重要な鍵となる。したがって、朝鮮は『檀君朝鮮』ではなく『箕子朝鮮』を根拠として、当時の文明基準であった中華文明秩序の関係の中において文明国家としてのプライドを表現しようとした。すなわち、朝鮮は中国との同質化を通じて周辺国家との格差を浮き彫りにし、朝鮮の東アジア文明共同体内における地位を高めようとしたのである。こうした理由によって、朝鮮国家の根本大法である『経国大典』「礼典」の中に事大的内容を付け加え、それを国内法のシステムとして実際に運用した。朝鮮の為政者たちは、事大表現として朝貢は理の当然なることを認め、『小国の大国に侍奉するは、まさに朝聘と貢献の儀礼を保持すべし』『朝貢は臣下の応に做すべきの事なり』と述べている」と評している[2]。 編纂の経緯
概要『経国大典』は、徐居正(戸曹判書兼芸文館大提学)による序文と崔恒(寧城府院君兼春秋館領事)による箋文および目録と条文の本文からなり、成化5年(睿宗元年)1469年9月の日付がある。『経国大典序』で徐居正は、大典の集成が世祖王により、崔恒以下の9名に命じられたこと、六典が古代周の六卿に依拠し、周官・周礼との調和を目指したものであること、万世の成法として国家悠久の大業であることを叙述している。 吏典経国大典の券之一(29項)。吏典は公法のうち行政法・人事法に該当し、官制の基本的な構造を規定したもの。
戸典経国大典の券之二(30項)。戸典は人民の統治の基本となる法典で、1460年に最初に公布された。内容は民法の基幹となる規定を含み、商法・税法・戸籍法など財政経済と租税制度に関わる成文法。
礼典経国大典の券之三(61項)。礼典は、儒教の「礼」に基づく成文法を規定し、科挙制度や外交儀礼、冠婚葬祭についての細かな諸規定が定められている。
兵典経国大典の券之四(51項)。兵典は、軍制、軍務および武官など軍事全般に関する法規。
刑典経国大典の券之五(28項)。刑法のうち、刑罰の種類や刑期、訴訟関係、犯罪の種類、監獄や看守に関する規定は、明の刑法典である『大明律』を基本として援用し、『経国大典刑典』では明律に記載のない条文を補完し、朝鮮独自の特殊な事案を規定している。
工典経国大典の券之六(14項)。工典は、土木、建築に関する諸規定と殖産、度量衡などに関する規定。
脚注
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