細川碧
細川 碧(ほそかわ みどり、1906年5月15日 - 1950年8月21日)は、日本の作曲家。東京府出身。 来歴東京牛込に生まれる。「さるやんごとない方の落とし子」[3]「さる帝(明治天皇ではない)のご落胤」(ごらくいん)[4]であったとされる。 東京府立第一中学校(現・東京都立日比谷高等学校)在学中、梁田貞に作曲を学んだのち、1923年東京音楽学校本科声楽科へ入学。ハンカ・ペツォールト、マルガレーテ・ネトケ=レーヴェに声楽を師事し、作曲を信時潔に学んだ。進んで同校研究科作曲部に入り、信時にさらについた[1]。 1929年、同校研究科卒業と同時に文部省在外研究員としてウィーン市国立音楽芸術単科大学に5年間留学する。そこでは主にフランツ・シュミットに師事し、1934年4月、同学優等賞を受けて学課を修了した。在外生活後半の2年にウィーンおよびブダペスト放送局の委嘱により自作品の演奏と日本音楽の講演などを行うも、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団演奏による交響詩《法の夕》の演奏と日本への中継放送計画は中断している[要出典]。この作品は恩師フランツ・シュミットより「日本のストラヴィンスキー」と激賞されたという[要出典]。 1936年帰国、以後1946年まで東京音楽学校教授として作曲理論の教鞭をとり、後進の指導にあたった。1938年と1944年には自作交響作品の発表会を開催して世に問うた。敗戦後、戦争責任を問われると[注 1]橋本國彦、平井康三郎と共に音楽学校教授を辞職[要出典]。1950年、若くして亡くなった。 没後、多くの自筆譜は弟子の竹内昭一が預かったが、その後行方不明になっている[要出典]。そのうえ、本領としたオーケストラ作品には出版されたものや録音の残るものがひとつもない。そのため、再評価が実質的には不可能になっている[疑問点 ]。 作品主な作品に以下のものがある[要出典]。
教え子脚注注出典
参考文献
関連資料発行年順
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