管弦楽のための協奏曲 (バルトーク)
管弦楽のための協奏曲(かんげんがくのためのきょうそうきょく)は、バルトーク・ベーラが1943年に作曲した5つの楽章からなる管弦楽曲である。バルトークの晩年の代表作であり、最高傑作のひとつにも数えられる。
概説この曲は1943年当時ボストン交響楽団の音楽監督だったクーセヴィツキーが、自身の音楽監督就任20周年を記念する作品として、また亡くなったナターリヤ夫人の追憶のための作品として、彼女と共に設立した現代音楽の普及を目的としたクーセヴィツキー財団からの委嘱としてバルトークに作曲を依頼したことにより作曲された。 アメリカへ移住したバルトークは環境の変化になじめず、創作の意欲を失っていた[2]。アイディアを全く持っていなかったわけではなかったが[3]、この委嘱が無かったら、弦楽四重奏曲第6番がバルトークの最後の作品になっていたであろうと考えられている。更に1943年の2月に健康状態の悪化[4]で病院に入院してしまい、ライフワークである民俗音楽の研究すら思うように出来ず、ピアニストとしての活動も難しくなり、戦争による印税収入などのストップによる経済的な困窮も相まって強いうつ状態にあった。 バルトークがハンガリーから移住する手助けをしたヨーゼフ・シゲティやフリッツ・ライナーは、バルトークが労働の対価以外の援助を受け付けないことをよく知っており、支援のために、周囲の音楽家にバルトークの作品を演奏してもらうことを提案していた。その中の一人が20世紀音楽の紹介者でもあったクーセヴィツキー[5]だった。シゲティから1943年の4月に『弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽』を演奏してもらえないかとの手紙をもらったクーセヴィツキーは、シゲティに「今からプログラムを変更するのは難しいが、他の方法で彼を助けることができると思う」と手紙を送った。 それから数週間後、クーセヴィツキー財団がバルトークのもとに作品委嘱の依頼状を送り、クーセヴィツキーも見舞いとしてバルトークの病室を訪問した。ブージー・アンド・ホークス社の現在の版の前書きによると、クーセヴィツキーは委嘱代として当時破格の1000ドル[6]の小切手を持参。バルトークは委嘱はうれしいが体力的に作曲できるかわからないと渋っていたが、クーセヴィツキーは「財団が決めたことで(断るといわれても)私には選択権がない」「この委嘱には期限がない」と説得し、バルトークは病院を退院した後の5月26日に、クーセヴィツキー財団に委嘱を承諾するという返信を送った。 この委嘱はバルトークに創作意欲を取り戻させただけでなく、周囲の人には生命力さえ呼び起こしたように見えたようだったという。結果的には「作曲者・著作者・出版者のためのアメリカ協会 (the American Society for Composers, Authors, and Publishers) 」[7]の世話で滞在したニューヨーク郊外のリゾート地・サラナックレイク[8]で作曲に着手すると、たった2ヶ月[9]でこの作品を仕上げる。その後1945年に死去するまでこの曲以外にも『無伴奏ヴァイオリンソナタ』や『ピアノ協奏曲第3番』などの作品を残している。 なお、この曲の発想には、彼の楽譜を出版しているブージー・アンド・ホークス社の社主ラルフ・ホークスが1940年にバルトークに送った「バッハのブランデンブルク協奏曲集のような作品を書いてみたらどうでしょう」という書簡や、バルトークがアメリカ移住時に携えてきた盟友コダーイの同名の作品(1939年作)の影響を指摘する声もある。 初演に際してバルトークは医師の忠告を無視してボストンに行き、リハーサルから立ち会った。当時のボストン交響楽団メンバー、ハリー・ディクソンの回想によると、リハーサルでのバルトークは「大きすぎる」「急ぐな」と再三にわたり曲を止めて指示を出していたので、業を煮やしたクーセヴィツキーは「ご意見をメモしておいてはいかがでしょう。あとで検討しましょう」とその場を乗り切った。休憩時間中2人は話し合い、バルトークは帰っていった。リハーサルに戻ったクーセヴィツキーは「問題は全て解決した」と楽団員に語ったという。初演も成功に終わり、バルトークは何度も舞台に出ては聴衆の喝采に応えたことを友人に話したり手紙で送ったりしている。そしてこの曲は一気にポピュラーになり、バルトークの代表作として演奏会レパートリーに定着している。 改訂
1946年にブージー・アンド・ホークス社から出版されたスコアは、バルトークが初演を聴いた際の反省やクーセヴィツキーの意見に基づいて、1945年2月に改訂した形で刊行された。初演からの大きな変更点には、補遺として終楽章のコーダの部分が長くなった、新しいバージョンが加えられたことがある。これは一部の小節の重複を含めて後のページに収録され、改訂前後の両方を確認できるようになっている。 この改訂については、バルトーク自身が手紙の中で「エンディングが唐突過ぎる感がある」と述べている初演の反省を元に書き加えたという経緯があることと、演奏効果的にも派手であることから、改訂後のバージョンを採用する演奏が圧倒的に多い。改訂前の版は小澤征爾[10]などがレコーディングしている他、ナクソス・ヒストリカルからクーセヴィツキーによるライヴ録音(初演直後の1944年12月30日録音)も発売されている。 またブージー・アンド・ホークス社のスコアは、初版制作の途中でバルトークが他界し、途中からバルトークの遺した指示を基にシャーンドル・ジェルジが作業を引き継いだこともあり、後述する第2楽章の速度などにミスが生じていた。1997年に新版となる際、バルトークの次男ペーテルとその協力者のネルソン・デッラマジョーレによって校訂が行われ、これらの間違いの修正に加え、バルトークが「更なるいくつかの改訂」を反映しようとしていた版下を発見し、補足として記載している。 その後ヘンレ社から出版された批判校訂版や、ヘンレ版を踏まえて作られた全音楽譜出版社のスコアは、「更なるいくつかの改訂」を反映したものになった。特に全音のスコアは終楽章コーダについて、実際の演奏頻度を反映し、初演時のものを補遺とする、それまでと逆の形で作成されている。 初録音1946年2月5日に、フリッツ・ライナー指揮ピッツバーグ交響楽団により、初録音(モノラル録音)が行われた。この録音は改訂版で演奏されている。 人気演奏するのはかなり難しい部類に入る[11]が、国際指揮コンクールの課題曲の常連と言われている作品であり、若手指揮者の試金石のような存在である。なおこの作品は作曲者自身の手によるピアノ独奏版があり、シャーンドル・ジェルジが世界初録音を果たしている。このことから指揮のレッスンにも即使え、指揮者の才能も測れて教育的にも効果がある。 曲の構成5つの楽章からなり、交響曲と言っても良い規模を備えている。ただし作曲者自身が初演のプログラムに寄せた解説でも述べているように、オーケストラの各楽器をあたかも独奏楽器のように扱ったり、全合奏と室内楽的アンサンブルが交錯するような楽曲構造をとっていることから、「協奏曲」と言う名が与えられている。また各楽章のタイトルはバルトーク自身による。
譜例1 譜例2 譜例3 譜例4 譜例5
譜例6 譜例7 譜例8 譜例9 譜例10 譜例11
譜例12
譜例13
譜例14
楽器編成
参考文献・資料
脚注
外部リンク |