筒井順斎筒井 順斎(つつい じゅんさい、天文20年〈1551年〉? - 慶長15年8月3日〈1610年9月19日〉)は、戦国時代から江戸時代初期の武将、旗本。父は福住順弘とされる。仮名は藤六郎、官途は紀伊守[1]。諱ははじめ俊勝(としかつ)、のち政行(まさゆき)[1]。 生涯福住順弘の二男として生まれたという[1][2]。母は筒井順昭の娘で、順斎は筒井順慶の養子になったとされる[1][2][注釈 1]。 徳川家康に仕え、大和国福住で5,000石を領した[1][2]。数々の功を上げ、家康の妹・市場姫を妻とし、粉粧料として武蔵国足立郡に1,000石を得た[1][2]。 慶長5年(1600年)の上杉征伐に従軍[1]。下野国小山で石田三成挙兵の報が入った際、大和に向かい筒井定次・柳生宗厳と示し合わせて忠節を励むよう命じられる[1]。 慶長10年(1605年)9月より伏見城西御門の番を務めた[1]。 「慶長郷帳」には山辺郡内の領主として「筒井紀伊守」の名があり、順斎を指すとみられる[2]。 慶長15年(1610年)8月3日、死去[1]。享年60、または64ともいう[1]。 順斎の跡を継いだ子の正次は、大坂の陣の際、郡山城を守り切れずに自害[1][2]。その後も筒井氏は旗本として続いている[2]。 脚注注釈出典 |