竹森次貞
竹森 次貞(たけのもり つぐさだ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。筑前国福岡藩士。黒田二十四騎の一人。 生涯天文19年(1550年)9月2日、播磨国加古郡大野の日岡神社宮司・猪上俊久の三男として誕生。幼名は新次郎。 永禄2年(1559年)、日岡神社が別所安治の襲撃を受けて全焼する。その際、応戦した兄二人は討死し、新次郎は父・俊久、弟・若松丸と共に脱出する。翌永禄3年(1560年)、父・俊久は黒田職隆の下僕となり、新次郎も黒田孝高に小姓として仕える事となった。永禄8年(1565年)春に初陣。 天正5年(1577年)の高倉山城攻めでは、城主・福原助就の弟・伊王野土佐守、家老・祖父江左衛門を討ち取った。また、平塚為広が福原助就を討ち取った際にそれを補佐した[1]。その功績から、孝高により士分に取り立てられ、竹森新右衛門を名乗る。天正6年(1578年)の播磨別府城の戦いでは一番首を挙げるが、左手の親指の付け根から手首までを斬り割られるという傷を負い、それ以後孝高の命により旗役となる。 天正8年(1580年)、200石を拝領し、旗奉行に任命される。旗奉行として鳥取城攻め、備中高松城の戦い、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、城井谷攻め、文禄・慶長の役などに従軍。この間、天正14年(1586年)に300石、翌天正15年(1587年)に400石、天正18年(1590年)に600石、文禄元年(1592年)に900石とたびたび加増を受けている。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際には、孝高に従って九州各地の攻略に従軍した。 慶長6年(1601年)、名島城で2,500石を拝領。福岡城博多口の百間石垣の工事も担当した。慶長7年(1602年)に黒田忠之が生まれた際には、吉田長利と共に幼名「万徳丸」の名付け親となった。この後、3,000石に加増され、石見守を称した。 脚注
出典 |