種子島久道種子島 久道(たねがしま ひさみち、寛政5年10月23日(1793年11月26日) - 文政12年5月13日(1829年6月14日))は、薩摩藩(鹿児島藩)家臣で第23代種子島氏当主。初名は輔時、次いで久徴を名乗り、後に久道に改名した。幼名は鶴袈裟、官名は蔵人、美濃、伊勢。男子直系子孫としては最後の種子島本家当主となった。 略歴寛政5年10月23日(1793年11月26日)に誕生、同9年6月6日(1797年6月30日)には早々と島津斉宣次女・御隣と結婚する。文化2年12月15日(1806年2月3日)に鹿児島城にて元服する。 文化15年1月13日(1818年2月17日)、突如島津斉興は種子島家家老・北条守道を呼び出し、「去年生まれたばかりの男子(普之進、後の島津久光)を久道と御隣の間に生まれた娘と結婚させて婿養子とし、種子島家の後継者とするように」と命じた。久道と御隣夫妻はまだ若く、男子の出生が期待できた時期のこの申し出は、さすがに藩主の命とはいえ非常に失礼と受け取られ、種子島家の家臣からは「島津家の本姓は源氏、種子島家の本姓は平氏で別族であるため承服しがたい」と反対運動が起こった。しかし、最終的には藩主との軋轢を懸念した久道の決定によりこの養子縁組を受けることとなる。その後、養子となった普之進の養育は斉興の手元で行われ、種子島家からは全く手が出せなかった。 ところが文政8年1月13日(1825年3月2日)に島津斉興は「思うところあって」[注 1]普之進の養子縁組を撤回すると突然宣言した。種子島家を大いに侮辱したこの行為に対して久道・御隣夫妻は斉興に対して抗議している。しかしその後、普之進に代わる養子が立てられることもなく、病気がちであった久道は文政12年5月13日に死去。正室・御隣、側室との間にも女子しかおらず、種子島家は断絶の危機に立たされた。しかし、久道未亡人・御隣(松寿院)や種子島家家老達の必死の陳情により、「しかるべき養子が決まるまで、松寿院が種子島家の家督代を務める」事が認められ、家名廃絶の危機は免れることが出来たのである。 久道の跡を嗣ぐ久珍がやってきたのは久道の死後15年も経った後のことになる。 家族
脚注注釈出典参考文献
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