稚武彦命
稚武彦命(わかたけひこのみこと[1])は、記紀に伝わる古代日本の皇族。 『日本書紀』では「稚武彦命」、『古事記』では「若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)」「若建吉備津日子命」、他文献では「若武彦命」とも表記される。 第7代孝霊天皇皇子で、吉備臣(吉備氏)の遠祖。「吉備津彦命(きびつひこのみこと)」と称されることもあるが、その呼称では一般に兄の彦五十狭芹彦命(大吉備津彦命)を指す場合が多い。 系譜『日本書紀』に基づく関係系図
(名称は『日本書紀』初出を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載) 第7代孝霊天皇と、絙某弟(はえいろど、蠅伊呂杼)との間に生まれた皇子である[1]。同母兄には彦狭島命(日子寤間命)がいる。異母兄弟のうちでは、同じく吉備氏祖で四道将軍の1人の彦五十狭芹彦命(比古伊佐勢理毘古命、吉備津彦命)が知られる。 『日本書紀』では子に関する記載はない。『古事記』景行天皇段では、子として景行天皇皇后の針間之伊那毘能大郎女(日本書紀では播磨稲日大郎姫)、景行天皇妃の伊那毘能若郎女の名を記す。そのほか、『新撰姓氏録』では吉備武彦命を始めとする諸人物を子孫として記載する。 記録『日本書紀』では、稚武彦命の事績に関する記載はない。 『古事記』孝霊天皇段では、若建吉備津日子命は大吉備津日子命(彦五十狭芹彦命)とともに吉備国平定に派遣されており、針間(播磨)の氷河之前(比定地未詳)に忌瓮(いわいべ)をすえ、針間を道の口として平定を果たしたという[1]。 後裔氏族『日本書紀』では稚武彦命を吉備臣の祖とし、『古事記』では吉備下道臣・笠臣の祖とする[1]。 また『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている。
国造『先代旧事本紀』「国造本紀」には、次の国造が後裔として記載されている。 伝承稚武彦命に関して、兄の吉備津彦命(大吉備津彦命)による吉備平定に付き従った際の伝承が各地に残っている。特に岡山県総社市周辺では、吉備津彦命とともに鬼の温羅を討ったという伝説が知られる(詳しくは「温羅」を参照)。 脚注参考文献
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