福田眉仙福田 眉仙(ふくだ びせん、明治8年(1875年)9月5日 - 昭和38年(1963年)10月28日)は、新南画を拓いた画家。 経歴1875年(明治8年)、兵庫県矢野町瓜生(現在の相生市)に生まれる。幼少の頃から絵が巧みで、森光専寺に13歳頃の絵が残されている。後、1894年には京都出身で1890年から東京に在住していた日本画家の久保田米僊、ついで東京美術学校で橋本雅邦に画技、フェノロサによる美学、岡倉天心による「日本美術史」、フェロノサと岡倉天心の師である黒川真頼による有職故実、和文、金工、漆工史等の講義があった[1]。を学ぶ。特にその校長・岡倉天心には人格的に深い影響をうけた。 1898年(明治31年)天心・雅邦が日本美術院を創設すると、横山大観・下村観山・菱田春草らとこれに参加した。 1909年(明治42年)、師天心から託された南画復興を叶えるため、日露戦争後の中国大陸を約3年にわたってスケッチ旅行をした際、峨眉山の壮観さに感銘を受け、号を眉山にしたとされる[2]。 1917年(大正6年)六甲山麓苦楽園に居を移し、長虹画窟を構えた。 1963年(昭和38年)、88歳で死去。 作風眉仙の画風は、師岡倉天心から「日本美術院の中で、その性格・筆致が南画にてきしているのは君ひとりだから、衰退している南画を君の手で復興してもらいたい」と激励された[2]ということでもわかるように、南画(文人画)を基調とするものであるが、根底を支えるものは写実主義である。画題・画意によってもっともふさわしい画風を駆使し、「新南画風」とでもいうべき眉仙独自の画境を拓き、日本美術史に独自の足跡をとどめている。 代表作
脚注
参考文献
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