福原房純福原 房純(ふくばら ふさずみ、明和9年(1772年) - 天保7年1月2日(1836年2月18日))は、長州藩永代家老・宇部領主福原家21代当主。 父は徳山藩主毛利就馴。母は側室。養父は福原就清。正室は宍戸就年の娘。子は福原熙賢、宍戸元礼。養子に福原房昌(のちの毛利斉元)。通称は勝三郎、豊前。初名は毛利馴倫(よしのり)。諱(福原家時代)は俊朋(としとも)、房俊、房純。 生涯明和9年(1772年)、徳山藩第7代藩主・毛利就馴の庶長子・馴倫として生まれる。正室に弟徳太郎(毛利広鎮)が生まれると、妾腹のため次男とされる。寛政3年(1791年)、宗家家老福原就清の養子となり、家督を相続、名も福原俊朋に改める。後に藩主毛利斉房からの偏諱を賜り、房俊、房純に改名。寛政9年(1797年)、領内真締川の河川改修工事を行う。寛政12年(1780年)、御国加判役(家老)を仰せつかる。享和2年(1802年)、第8代藩主毛利重就の孫・房昌を養子に迎える。文化11年(1814年)、房昌が藩主毛利斉熙の養子となり藩主家に戻ったため、実子の繁次郎(熙賢)を嫡子と定める。文政元年(1818年)6月、当職(国家老・執政)となる。文政7年(1824年)、当職辞任。天保7年(1836年)1月2日没。享年65。その直後の10日に嫡男の熙賢も没したため、家督は嫡孫の勝三郎(親俊)が相続した。 参考文献
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