神代種亮
神代 種亮(こうじろ たねすけ、1883年(明治16年)6月14日 - 1935年(昭和10年)3月30日)は、日本の校正家。「校正の神様」といわれた。号の帚葉は、誤字を除ける校正業を落葉掃きで譬喩したもの。七松庵とも号す。 来歴石見津和野(現・島根県津和野町)出身[1]。松江師範学校を卒業して教師となる[1]。明治末年に教師を辞めて上京し、大正末年まで海軍大学校図書館に勤務する[1]。そのかたわら、図書館の蔵書を利用して明治文学の研究に没頭する[1]。後に明治文化研究会の一員となる[1]。 1924年11月25日、東京朝日新聞の夕刊で「校正の神様」として紹介される[1][2]。1930年、「日本校正協会」を設立・主宰し、雑誌「校正往来」を発行する[1]。 1935年3月30日、東京・千駄木の自宅で突然倒れ、そのまま死去。狭心症とも脳障害による卒倒とも言われるが詳細は不明、享年52歳[1]。 永井荷風の『濹東綺譚』の「作後贅言」(いわゆるあとがき)に「神代帚葉翁」(かうじろさうえふ)として、多大の敬意をもってその生涯を回想している。ただし、『断腸亭日乗』中には批判的な記述もあり。 脚注外部リンク |