碇 穹一(いかり きゅういち、1944年 - 2016年11月20日[2])は、日本のカーデザイナー。富士重工業(現・SUBARU)のデザイナーとして、スバル・アルシオーネのデザインを手がけた人物として知られる[3]。
生涯
1944年(昭和19年)、千葉県に生まれる。幼少期を八日市場(現・匝瑳市)で過ごし、旭市で映画館を経営していた叔父の影響で自動車に関心を持つ。中学生のとき自動車の設計士を志し、千葉県立匝瑳高等学校を卒業後、御茶の水美術学院での浪人生活を経て、スバル・360のデザイナー・佐々木達三が教鞭を振るっていた武蔵野美術大学に進学した。大学では造形学部工芸工業デザイン学科を専攻し、1969年(昭和44年)に卒業。富士重工業に入社し、スバル技術本部デザイン課に配属、群馬県太田市の社員寮へと入寮する。初の愛車はスバル・ff-1であった。1973年(昭和48年)、先輩社員であった矢古宇宏の紹介で知り合った女性と結婚。仲人は佐々木達三が務めた。在職中、アメリカ合衆国アートセンター・カレッジ・オブ・デザイン留学(1980年 - )、ヨーロッパ駐在(1990年 - )、しげる工業への出向(2000年 - )を経験。2004年(平成16年)、スバルカスタマイズ工房へと移籍し、2005年(平成17年)に退職。晩年は書籍の執筆や[12]郷土史雑誌への寄稿[13]、自動車ファンとの交流[3]、母校である匝瑳高校の同窓会東京支部「匝東会」役員(副会長)を務めるなどして過ごし[14]、2016年(平成28年)11月20日、群馬県太田市で死去した[2]。
実績
- スバル・レックス(初代550cc)
- 軽自動車エンジン排気量550cc化に伴い、後部のガラスハッチ周りをデザイン。
- スバル・サンバー(3代目550cc)
- 同じく550cc化に伴い、大型のフロントグリルやハイルーフの形状をまとめる。
- スバル・アルシオーネ
- 加藤登[注 1]のもと、杉本清や加藤秀文らとともに1/4スケールモデルを製作し、ほぼそのままの外観形状でフルスケール化。スバル・オブ・アメリカから提示されたマルチェロ・ガンディーニによる作品「アスコット」とイメージを共通するものとなっている。内装についてもステアリング・ホイール周りの特徴的なスイッチ類、攻撃ヘリコプターの操縦桿をモチーフとしたシフトレバーなど、ハイテク感満載のデザインに仕上げた。
- スバル・サンバー(5代目クラシック)
- 当初、猿川洋史が手がけていたサンバークラシック企画を継承。
- スバル・ヴィヴィオ(年次改良)
- フェイスリフトを手がけるも難航。デビュー当初のデザインには及ばず。
- スバル・インプレッサ(初代)
- 開発初期にインテリアデザインに着手して間もなくヨーロッパ駐在が決定。後任へと引き継がれた。
- スバル・ジャスティ(初代コンバーチブル企画)
- ヨーロッパでジャスティの延命を意図して企画するも実現せず。
- リッターカークラスのコンパクトカー企画
- 女性向けの小型車として、軽快でスポーティなハッチバック車をデザインするも、社外からのエンジン調達にめどが立たず、企画自体が頓挫。
- スバル・レガシィ ブリッツェン 2005年モデル
- スバルカスタマイズ工房移籍後、本モデルのプロデューサーを務める。4代目レガシィB4 2.0GTをベースとする本モデルは、ブリッツェンとしては3世代目となる。初代から受け継いだワイルドさ、2代目から受け継いだエレガントさに加え、都会的なイメージ「カジュアルアクセント」の3つを骨子として、ヨーロッパのデザイナーとの共同開発にあたった。本モデルの発売後、間もなく定年退職を迎えている。
その他
脚注
注釈
- ^ 加藤 登(かとう のぼる)は、日本のカーデザイナー。東京芸術大学出身。1961年(昭和36年)富士重工業入社、1995年(平成7年)退社。スバル・1000バン、レオーネのデザインに関与。
出典
参考文献
- 碇穹一『スバルデザイナー放浪記 〜団塊世代への伝言「スバルの車造り」〜』群馬出版センター、2006年。ISBN 9784906366439。
- 片岡英明「アルシオーネ開発秘話」『driver 2015年8月号』第52巻第11号、八重洲出版、2015年、42 - 47頁。
- 古川教夫「NEW COMER REPORT Part.1 BLITZEN 2005MODEL」『クラブレガシィ 2005年4月号』第4巻第2号、ニューズ出版、2005年、15 - 20頁。
関連項目