石山基正
石山 基正(いしやま もとなお)は、幕末の公家、明治期の官僚、華族(子爵)。 経歴山城国京都で石山基文の長男として生まれる[1]。安政3年12月7日(1857年1月2日)に元服し昇殿を許され、安政4年5月15日(1857年6月6日)右兵衛権佐となる[1][2]。元治元年6月(1864年)横浜鎖港督励の三八卿連署に加わり、また、元治元年7月19日(8月20日)の禁門の変では父・基文と共に長州藩側として動き、参朝停止、他人面会・他行の禁止を命ぜられた[1]。慶応3年1月(1867年)赦免となる[1]。 慶応3年12月9日(1868年1月3日)王政復古を迎え、同年12月22日(1月16日)三職書記御用掛となる[3]。以後、参与助役、参与・会計事務局判事加勢、参与・会計事務局権判事、弁官事候所出仕、宮内省出仕、宮中勤番、雅楽局出仕・助准席、式部寮御用掛、式部寮八等出仕、雅楽部副長兼掌典などを歴任[1][3]。 父・基文の死去により、1891年12月10日、子爵を襲爵した[4]。 系譜基本、『平成新修旧華族家系大成』, p. 127–128を参照している。 脚注参考文献
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