石丸有定
経歴・人物伊勢国の人物[1]。はじめ北畠具教に仕え、長野氏との抗争にて軍勢を率いて活躍する[1]。織田信長の次男である信雄が北畠氏の養子となると、これに属し、伊勢南部にて300貫文を知行する[1]。のち天正19年(1591年)信雄が豊臣秀吉により所領を没収され、出羽秋田へ流罪にされた際にもこれに従った[1]。文禄元年(1592年)徳川家康に招聘され、500石を知行する[1]。慶長3年(1598年)病気により蟄居する[1]。墓所は神奈川県横浜市青葉区のこどもの国近くの松岳院。 脚注 |