白鳥浩徳
白鳥 浩徳(しらとり ひろのり、1966年5月4日 - )は、宮城県出身の元プロ野球選手(投手)。 来歴・人物東北高時代は、1983年春の甲子園と1984年夏の甲子園にも出場するが、いずれも登板機会はなかった。このときはエースナンバーを付けていたが、1年下の佐々木主浩が実質エースのため、控え投手扱いであった[1]。 高校卒業後は、社会人野球の住友金属鹿島に入団。1990年と1993年に日立製作所の補強選手として都市対抗野球大会に出場[1]。スライダー、シュートを武器とした。 1993年のプロ野球ドラフト会議で西武ライオンズから5位指名を受け入団[1]。 1年目の1994年は、5月から敗戦処理を中心に投げていたが、6月7日に4回無失点の好投をしたのと翌8日に村田勝喜がぎっくり腰で途中降板・登録抹消となったのを受けて、6月14日対千葉ロッテマリーンズ戦でプロ入り初初先発を果たす。これは、相手の予告先発が伊良部秀輝で、チームはローテーションの谷間という森祇晶監督いわく「捨て試合」[2]であった。試合は、チームが伊良部から2点を先制して白鳥も無失点に抑えていたが、5回表2死満塁となったところで「リードを守る以外に勝機はない」[2]との判断で投手交代され、勝利投手の権利を得ることができなかった。そのピンチは救援が抑えたものの、チームは最終的に逆転負けを喫した。 1995年7月16日の対日本ハムファイターズ戦で、プロ入り2度目の先発を果たすが、初回に2点を取られて1死満塁のピンチを招くなど、0回3分の1でKOとなった。結局、一軍未勝利のまま1997年に現役引退した[1]。 2011年まで、西武ライオンズの打撃投手兼スコアラーを務めた。 詳細情報年度別投手成績
記録
背番号
脚注関連項目外部リンク
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