白川資長白川 資長(しらかわ すけなが、1871年2月17日〈明治3年12月28日[1]〉 - 1959年〈昭和34年〉6月9日[1][2])は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 経歴神祇大副・白川資訓の長男として生まれる[1][3]。1906年(明治39年)12月24日、父の死去に伴い子爵を襲爵した[4]。1905年(明治38年)[注 1]、東京外国語学校仏語科を卒業し、さらに東京帝国大学文科大学を修了した[2][3][5]。 1914年(大正3年)以降、名誉掌典、神社調査会委員、神社制度調査会委員などを務めた[2][3][5]。また、日本精神研修会長となり、息吹長世の行法を指導した[5]。 1918年(大正7年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され[6][7]、研究会に所属して活動し1939年(昭和14年)7月9月まで在任した[2]。 戦後は神社本庁参与を務めた[5]。子女に恵まれず、養子縁組も1954年に解消したため[1]、彼の死と共に白川伯王家は断絶した。 栄典親族脚注注釈出典参考文献
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