畠山七人衆畠山七人衆(はたけやましちにんしゅう)は、戦国時代において能登畠山氏(七尾畠山氏)を事実上支配した政治組織及び、それを務めた7人の畠山家の重臣を指す。筆頭の温井総貞と守護代の遊佐続光によって主導された。七人衆体制の崩壊後も、そのメンバーである遊佐続光と長続連らによって能登畠山家の運営がなされた。しかし、遊佐続光の裏切りにより、七尾城の戦いで長続連は暗殺された。 概要前史と畠山七人衆の成立能登畠山家は7代目・畠山義総の頃に全盛期を迎えるが、義総の死後、以下に挙げる7名の重臣(年寄衆)の合議制によって政策運営がされるようになる。 また、次の8代目・畠山義続は七人衆の傀儡であり、畠山家の政策は、筆頭の温井総貞を始めとする七人衆に委ねられていた。
温井総貞と遊佐続光の対立遊佐続光の遊佐氏は元々守護代として所領を支配してきた畠山家の重臣であった。一方、温井総貞はその文芸の知識より義総から筆頭家老に格上げされていた。 やがて両者の権力争いが大きくなり、9代目・義綱の時代になると総貞は続光を追放する(大槻一宮合戦)。こうして七人衆で総貞に並ぶものがいなくなり、実質的に総貞が畠山家の実権を握ることとなる。 七人衆体制の崩壊と永禄九年の政変義綱は、父・義続と共に筆頭であった温井総貞を暗殺し、権力の奪取を図った。温井氏とこれと親しい三宅氏は、加賀の一向衆と結びついて謀反を起す(弘治の内乱)。一時、苦戦を強いられるも義綱は内乱を鎮圧し、温井氏と三宅氏を追放して大名としての権力を掌握した。総貞の暗殺後は遊佐続光も帰参する。 義綱は重臣たちの権力を削ぎ、大名専制を確立する。こうして七人衆体制は終わりを迎えた。 義綱の統治の下、しばらくは安定した時代が続いたが、1566年に長続連・遊佐続光らによる武装蜂起が起き、義綱は父・義続と共に追放されてしまう(永禄九年の政変)。続連・続光らは、追放されていた温井・三宅両氏を再び迎え入れ、当主を傀儡とした七人衆のような重臣たちによる統治を再び始める。 この後、幼君を擁立した傀儡政権が続くことになるが、10代目・義慶及び11代目・義隆は短命であり、一説に遊佐らによって暗殺されたと言われる。 その後遊佐続光と長続連の対立七人衆内では3番手であった長続連の権力が拡大すると、筆頭の遊佐続光はかつての敵である温井景隆を引き込み、続連に対抗するようになる。 越前侵攻によって織田信長の勢力が能登まで伸びてくると長続連は織田氏に近づき、上杉氏寄りの続光とは反発しあうようになるなど、両者の権力争いが明確化する。この時、新たに擁立した畠山春王丸に関して畠山家の政情は上杉に付くか、織田に付くかで非常に不安定であった。 春王丸に近かった続連の政策が行われ、畠山家は上杉家と対立する。上杉謙信は上条政繁(畠山義則)を正当な当主としてこれを大義名分とし、畠山氏の居城・七尾城へ侵攻する(七尾城の戦い)。最初の侵攻を防いだ後、2度目の侵攻に際して長続連は織田の援軍を得るべく、息子の長連龍を使者として安土城へ送り、籠城策を取る。しかし、上杉家と呼応した続光及び景隆による謀反によって七尾城は陥落し、続連を始めとする長一族は皆殺しにされた。また、信長の命を受けた柴田勝家は後詰として七尾城へ向かうも救援が間に合わず、退却中に手取川の戦いで上杉軍に襲撃される。手取川の戦い及びそのきっかけとなる七尾城の戦いは、この重臣間の権力争いが遠因でもある。 この七尾城の戦いによって能登畠山家は滅亡し、以後、七尾城および能登は遊佐続光が実権を握ることとなった。 畠山家滅亡後謙信の死後、織田氏は長連龍を立てて七尾城攻め、投降してきた続光父子を処刑した。能登は勝家の支配下となり、連龍率いる長家は勝家の与力として存続し、柴田家の滅亡後は、加賀前田家の重臣(加賀八家)の1つとして存続した。 脚注 |