留守宗利
伊達 宗利(だて むねとし)/留守 宗利(るす むねとし)は、江戸時代前期の武士。陸奥国仙台藩一門第三席・水沢伊達家2代(留守氏19代)当主。 宗利は元服前の文禄元年(1593年)に伊達姓を拝領しているため、実際に留守宗利と名乗った期間はないが、これを記事名としているのは、明治2年(1869年)に水沢伊達家は留守氏へと復姓しており、これに伴い昭和49年(1974年)に日高神社に建立された宗利銅像の銘板では「留守宗利公」と標記していることによる。 生涯天正18年(1590年)、宮城郡利府城主・留守政景の長男として誕生。幼名は太利丸。 同年の奥州仕置にて、父・政景は小田原征伐に参陣しなかったため領地を没収され、以降は実家の伊達家に戻って甥の伊達政宗に仕えた。政景は文禄元年(1593年)に政宗より伊達姓を拝領して一門の家格に列し、以後留守氏は幕末に至るまで伊達姓を称することになる(水沢伊達家)。 慶長12年(1607年)、父の死去に伴い家督を相続し、磐井郡一関城主となって18,366石を知行する。 慶長16年(1611年)には江戸城西ノ丸の貝塚堀普請役を務める。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では先鋒を務めて初陣を飾り、大坂夏の陣でも鉄砲隊を率いて奮闘したが、宗利が40数名しか兵を出さなかったことが政宗の勘気に触れ、身分相応の軍役を負担しなかったことを理由として、翌年元和2年(1616年)2月、10,000石に減封されて胆沢郡金ケ崎城へと移されたが、寛永6年(1629年)江戸城石垣小路の普請を完成させた功を以て、同年8月15日、水沢城への居城移転が認められ、水沢伊達氏は幕末に至るまで同地を所領とした。このため水沢伊達家の歴代当主を、伊達姓に復帰した政景からではなく、水沢に入封した宗利から数える場合がある。 宗利は政宗の許しを得て水沢城を修築し、留守氏の旧本拠地であった岩切城や、利府城周辺に残してきた同氏ゆかりの寺社を水沢に移転させた。また、水沢城下の整備に努めたほか、寛永2年(1625年)から飛地の名取郡飯田で最上氏旧臣・小野常信(継室・多与の弟)に新田開発をさせるなど、所領の発展に力を尽くした。 寛永15年(1638年)8月15日死去。享年49。家臣8名が殉死。嫡男・宗直が家督を相続した。 昭和49年(1974年)、日高神社境内の瑞山神社(水沢伊達家祖廟)に宗利の銅像が建立された。 系譜関連項目 |