田辺貞吉
田辺 貞吉(たなべ さだきち[1]、1847年12月21日 - 1926年1月3日)は、日本の公吏・実業家である。東京府師範学校校長、住友財閥支配人、共同火災保険・共同生命保険・京阪電気鉄道などの社長を歴任した。 来歴1847年12月21日(弘化4年11月14日)、沼津藩士の田辺直之丞[2](田辺久之丞とも[3]、俳号は瑤草庵四友[2])の長男として、江戸・桜田門外の水野出羽守家藩邸に生まれる[2]。幼名は秀之助[2]。2歳年下の弟として、手島精一がいる[4]。藩校・明新館を経て、沼津兵学校を卒業した[3]。1869年(明治2年)に菊間藩権少参事、1870年(明治3年)に同少参事に任命された[4]。その後、千葉県大属を勤め[3]、1877年(明治10年)に東京府師範学校校長となった[1]。 1881年(明治14年)5月31日に官職を辞し、住友財閥の雇員として重任局に勤めた[3]。当時の住友家には、広瀬宰平の手により、工部省から沼津藩出身の広瀬担が招かれており、田辺の入社もこの縁であった[5]。翌1882年(明治15年)3月28日に理事、1883年(明治16年)12月3日に副支配人となった。その後、1890年(明治23年)1月5日には神戸支店副支配人、1892年(明治25年)1月5日には神戸支店支配人となる。1894年(明治27年)8月5日に本店支配人となり、1895年(明治28年)1月1日の住友銀行立ち上げ後は住友銀行総支配人となる[6]。1904年(明治37年)7月に引退し[7]、兵庫県武庫郡住吉村に隠居する[6]。後任は志立鉄次郎[7]。 田辺は1903年(明治36年)11月30日設立の京阪電気鉄道に監査役として参与しており[8]、1911年(明治44年)には渡邊嘉一を継ぎ社長となった。田辺のもと、香里園の住宅地としての売却や、摂津電気の買収などがおこなわれた。1913年(大正2年)には経営を土居通夫に引き継ぎ引退した[9]。彼は関西財界の重鎮であり、共同火災保険・共同生命保険などでは社長を勤めたほか[2]、帝国人造糸・九州炭鉱汽船・日本セルロイド・神戸電燈・日本エナメル・帝国鉱泉などの役員を歴任した[6]。また、彼は住吉村在住の他の財界人とともに、1910年(明治43年)、子女教育の場である甲南小学校を設立した。1912年(明治45年)の甲南学園法人化にあたっては、理事長に就任した[10]。1926年(大正15年)1月3日、住吉の自邸で死去した[11]。 田辺貞吉邸住友を退いた1904年7月、田辺は退職金を用いて住吉村に5,000坪の地所を購入した。和洋併置式邸宅であり、洋館部分については野口孫市の設計で1908年(明治41年)に建造された[12]。1915年(大正4年)にはこの邸宅を住友家に譲ったのち、より駅に近いところに地所を購入し、和洋折衷様式の邸宅に移り住んだ[13]。旧田辺邸は、1918年(大正7年)に住友分家の住友忠輝の邸宅[14]、1925年(大正14年)から1937年(昭和12年)にかけて住友家の本邸となった[13]。その後、邸宅は「住吉クラブ」「住吉研修所」として住友系企業に利用され、1977年(昭和52年)から1985年(昭和60年)までは、住友修史室が設置された[14]。1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災を経て神戸から京都に移築され、武田薬品工業株式会社京都薬用植物園・展示棟となった[15]。 家族実弟・手島精一の次男である壮吉(1879年・明治12年12月生まれ)と、本岡龍雄の次男である尚雄を養子に取っている[1]。壮吉は東京帝国大学政治学科を卒業したのち渡米し、農場を経営した[16]。1926年(大正15年)に家督を相続し、1928年(昭和3年)時点では日本原毛專務取締役・日本ダイヤモンド取締役であった[17]。尚雄は東京音楽学校を経て東京帝国大学物理学科を卒業し、東洋音楽の研究者となった[16]。また、娘としてはな(1890年・明治23年7月生まれ)がおり、その夫である小西幸助4男の貞造に嫁いだ。ほかに、神谷直儀の長女であるきよ(1883年・明治16年11月生まれ)を養女にとっていたが、奥居彦松に嫁いだ[1]。 出典
参考文献
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