田谷鋭
田谷 鋭(たや えい、1917年12月15日 - 2013年11月6日)は、昭和から平成にかけての日本の歌人。国鉄マンの労働現場を詠んだ歌がよく知られ、歌風はつつましさ、はじらいを特徴とする。 来歴千葉県千葉市寒川町生まれ。2歳で父を、7歳で母を結核で失い、4人の兄のうち3人をやはり結核で奪われる。貧苦の中、夜学の千葉関東商業学校(現敬愛学園高等学校)を卒業し、国鉄に勤務。 1934年(昭和9年)に北原白秋顧問、村野次郎主宰の「香蘭」に入会。1935年(昭和10年)、白秋が新たに創刊した「多磨」に移る。1939年(昭和14年)4月に応召、習志野陸軍病院に衛生兵として勤務。1942年(昭和17年)1月召集解除、国鉄に復帰。その後レントゲン技師に転職する。 戦後の1953年(昭和28年)3月、同門である宮柊二の「コスモス」創刊に参加。1958年(昭和33年)、第一歌集『乳鏡』で第2回現代歌人協会賞受賞。1973年(昭和48年)刊行の『水晶の座』で第8回迢空賞、第1回日本歌人クラブ賞受賞。1978年(昭和53年)、『母戀』で第30回読売文学賞受賞。1984年(昭和59年)、紫綬褒章受章。歌会始選者を務め、勲四等旭日小綬章も受けた。読売歌壇選者を務めた。 2013年11月6日、肺炎のため死去[1]。95歳没。 著書
脚注
参考 |