田村邦顕
田村 邦顕(たむら くにあき)は、江戸時代後期の大名。陸奥国一関藩の第7代藩主。官位は従五位下・左京大夫。 生涯文化13年12月27日(1817年2月12日)、6代藩主・田村宗顕の次男として、江戸愛宕下田村小路の中屋敷にて誕生した。幼名は深美。 文政10年(1827年)に父が死去したため、文政11年(1828年)2月19日に家督を相続して徳顕と名乗り、同月28日に11代将軍・徳川家斉に御目見する。文政12年(1829年)6月7日、宗家・陸奥仙台藩の浜屋敷において元服し、仙台藩主・伊達斉邦から偏諱を受けて邦顕と名乗る。 藩政においては連年の凶作が相次ぎ、藩財政は悪化の一途をたどった。 和算を嗜み、寝所に和算家の千葉胤秀を呼び寄せ、自ら作成した問題を解かせることもあった[1]。 天保11年(1840年)8月23日死去。享年25。実子はおらず、弟の顕允(邦行)が末期養子となって家督を相続した。 系譜
脚注参考文献
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