田村新吉田村 新吉(たむら しんきち、1864年1月25日(文久3年12月17日[1][2][3])- 1936年(昭和11年)11月9日[2][3][4][5])は、明治から昭和前期の実業家・政治家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員。 経歴摂津国大坂中之島[2][6](現大阪府大阪市北区中之島)の熊本藩屋敷で[2][7]、田村多兵衛[6][7](太平[2][3])の長男として生まれる[2][3]。幼くして父と死別し、廃藩置県後に母と神戸に移り、1876年(明治9年)元町の茶商・北井治右衛門に丁稚奉公した[2][6]。貿易商を目指しヒュース義塾で英語を学んだ[2][3]。その後、渡米してシヨトクワ文学会で理科、文科を学んだ[2][5][7][8]。 1888年(明治21年)頃にカナダのビクトリアに渡りゲブル商会に入り、日本に硫黄の調査に派遣されたが、商会が破産したためカナダに戻り、1891年(明治24年)10月、バンクーバーで元領事の神定雄と神・田村商会を設立し日本雑貨販売を経営した[2][3]。その後、神戸の栄町通6丁目に直輸貿易商・田村商会の本店を設け、東京、大阪、横浜、北米、カナダに支店・営業所を置いた[2][3][6]。また、カナダで日加合同貯蓄銀行、日加信託を設立して社長に就任し、日加貿易の振興に尽くした[3][6][7]。その他、日本精米精粉社長、東京内燃機工業社長、太平洋火災保険取締役、神戸輸出協会長、神戸日米協会長、神戸商業会議所(神戸商工会議所)会頭、大日本商工協会神戸支部長なども務めた[2][3][4][5][7]。 1915年(大正4年)3月の第12回衆議院議員総選挙に兵庫県神戸市から大隈伯後援会(公友倶楽部)所属で出馬して当選し[6][9]、衆議院議員に1期在任した[4][5][8]。また、1925年(大正14年)兵庫県多額納税者として貴族院議員に互選され[3][6][10]、同年9月29日に就任し[11]、同成会に所属して1936年11月に死去するまで2期在任した[2][4][12][13]。 脚注
参考文献
|