田安門(たやすもん)は、東京都千代田区北の丸公園内にある、旧江戸城の門[1]。北面する高麗門[2]と西側に矩折りに位置する櫓門からなる桝形門である。1961年(昭和36年)に「旧江戸城田安門」として国の重要文化財(建造物)に指定されている。
概要
田安門は、創建年代は明らかではないが、高麗門の扉の釣金具に残された刻銘から、1636年(寛永13年)に建てられたものと考えられている。古くは田安門の辺りは、「田安口」、「飯田口」と呼ばれ、上州方面へ通じる道があったといわれている。門を潜り進むと北の丸公園があり、当時、田安門から南にわたる西側一帯は田安家(田安徳川家)が、東側一帯は清水家(清水徳川家)が、それぞれ所有していた。江戸城造営後は、「北の丸」と称して、代官屋敷や大奥に仕えた女性の隠遁所となった。千姫や春日局、徳川家康の側室で水戸頼房の准母英勝院の屋敷などがあった。現在は、北の丸公園の出入口となっており、常時出入りができる。「江戸城跡」は国の特別史跡に指定されている。また、江戸城の門としては他に外桜田門と清水門が重要文化財(建造物)に指定されている[3]。
- 門名の由来
現在の門内の辺りは、当初、田安台といわれていた百姓用地で、そこに田安大明神(現・築土神社)があったことから名付けられた。
沿革
- 1457年(長禄元年) - 太田道灌によって江戸城が創られた
- 1590年(天正18年) - 徳川家康の居城となる
- 1592年(文禄元年) - 江戸城の大規模な改修が行われた
- 1607年(慶長12年) - 天守閣が建てられる
- 1636年(寛永13年) - 田安門が太田道灌時代に建てられた、総構が完成し、大城郭としての形がととのえられた
- 1657年(明暦3年) - 江戸城が大火に見舞われたが、城郭の規模は幕末まで維持された
- 1730年(享保15年) - 八代将軍吉宗は、次男・宗武を家祖として田安家を興し、宗武の男・松平定信はここで生まれた[4]
- 1963年(昭和38年) - 田安門の解体修理が行われた[3]
重要文化財(建造物)
- 旧江戸城田安門 2棟 - 1961年(昭和36年)6月7日指定。時代:江戸前期、種別:城郭、所有者:国(文部科学省)。江戸城遺構のうち、宮内庁所管以外のもの(田安門、清水門、外桜田門)が重要文化財に指定されている。
- 1636年(寛永13年)建築、高麗門、本瓦葺
- 髙麗門と櫓門からなる桝形を形づくっている[5]。
- 1636年頃(寛永13年頃)建築、脇戸付櫓門、入母屋造、本瓦葺
- 櫓門の上部は復元による[6]。
交通
ギャラリー
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田安門(櫓門)(2009年7月撮影)
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田安門(櫓門)(2009年7月撮影)
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田安門(2009年7月撮影)
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田安門と桜(2009年3月撮影)
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田安門と桜(2009年3月撮影)
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田安門(櫓門)と桜(2009年3月撮影)
脚注
- ^ 「江戸城は、1457年(長禄元年)に太田資長(道灌)によって創られたとされる。1590年(天正18年)、徳川家康の居城となり、1592年(文禄元年)から大規模な改修が行われ、1607年(慶長12年)に天守閣が、1636年(寛永13年)に総構が完成し、大城郭としての形がととのえられた。その後、1657年(明暦3年)をはじめ、幾度かの大火に見舞われたが、城郭の規模は幕末まで維持された」
- ^ 「高麗門の扉の釣金具には、製作に携わったと思われる職人の名文が見受けられる」
- ^ a b 千代田区観光協会 田安門 - [1]
- ^ 「北の丸公園は、当時、田安門から南にわたる西側一帯を田安家が所有していた。東側一帯は清水家が所有していた、現在は、田安門から北の丸公園へは、常時出入りができる」
- ^ 旧江戸城田安門 田安門) - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- ^ 旧江戸城田安門 櫓門) - 国指定文化財等データベース(文化庁)
関連文献
- 国史大辞典 『田安家(たやすけ) 徳川氏 (国史大辞典) 』」「田安家(たやすけ)三卿の一つ。八代将軍徳川吉宗の次男宗武を祖とし、江戸城田安門内の屋形に居住し」
- 日本建築学会論文報告集、文化財保護委員会『開智小学校本館の移築・旧江戸城田安門の櫓の復旧等』文化財保護委員会、1962年9月
- 文化財保護委員会『重要文化財旧江戸城田安門・同清水門修理工事報告書』文化財保護委員会、1976年
- 文化庁『国宝・重要文化財(建造物)実測図集』文化庁、1978年3月
- 『日本の文化遺産 写真資料』日本図書センター、2008年10月
関連項目
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外部リンク