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田付新助
田付 新助
(たづけ しんすけ)は、
蝦夷地
進出の先駆けとなった
近江商人
、屋号は
松前
で『
福島屋
』。歴代当主が
襲名
した
名称
。
歴代当主
[
1
]
田付新助 (初代)
景豊:(
天正
9年(
1581年
) -
寛永
9年(
1632年
)没)
田付新助 (2代):(
寛文
4年(
1664年
)隠居、
元禄
6年(
1693年
)没)父没後
家督
を継ぐ。
田付新助 (3代):(
宝永
3年(
1706年
)没)親戚筋に当たる田付新兵衛の次男。
田付新助 (4代):(
正徳
5年(
1715年
)生 -
寛政
11年(
1799年
)没)
田付新助 (5代):(
宝暦
4年(
1754年
)生 -
文政
8年(
1825年
)没)宮田四郎兵衛三男。
田付新助 (6代):(
寛政
6年(
1794年
)隠居、同年没)引退後は新右衛門と称す。
田付新助 (7代):(
文政
12年(
1829年
)隠居、
天保
8年(
1837年
)没)引退後は新右衛門と称す。
田付新助 (8代):(
天保
7年(
1836年
)隠居、
明治
4年(
1871年
)没)引退後は新右衛門と称す。
田付新助 (9代):(
嘉永
元年(
1848年
)没)
天保
3年(
1832年
)一家で松前に移住す。
田付新助 (10代):(9代急逝に伴い8代新助が復帰し、
安政
3年(
1856年
)再度隠居)
田付新助 (11代):(
安政
3年(
1856年
)10代より継ぐが、
文久
2年(
1862年
)家督返上)養子。
田付新助 (12代):(
文久
2年(
1862年
)家督を継ぐ)養子、
松前藩
より
帯刀
を許される。
明治
2年(
1869年
)新政府により『
場所請負制
』廃止。
脚注
[
脚注の使い方
]
^
「北海道『海』の人国記」(伊藤孝博著 無明舎出版 2008年)
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