『理性の女神 』(りせいのめがみ、ドイツ語 : Die Göttin der Vernunft )は、ヨハン・シュトラウス2世 が作曲した全3幕のオペレッタ 。
概要
舞台設定となった恐怖政治 当時のフランス
舞台設定はフランス革命 の直後、ロベスピエール が恐怖政治 を行っていた頃である[ 1] 。1896年 7月12日頃、シュトラウス2世はオペレッタの台本を受け取ったが、この内容が全く気に入らず、8月には契約を廃棄しようと考えた[ 1] 。しかし台本提供者たちはこれに同意しようとはせず、契約の履行を迫られたシュトラウス2世は、仕方なしに作曲の筆を執った。
そして1897年 3月13日 、『理性の女神』はアン・デア・ウィーン劇場 で初演された[ 1] 。初演日はお祭り騒ぎで、シュトラウス2世と親交のあった人々が、『理性の女神』を観るためにこぞってアン・デア・ウィーン劇場を訪れた。シュトラウス2世の親友であったブラームス は、末期の癌に苦しみながらも劇場に駆け付けた[ 1] 。彼の死の3週間前のことである。マーラー 、ヴェルディ 、さらにリヒャルト・シュトラウス などもブラームスとともに初演日の客席の中にいた[ 2] 。リヒャルト・ホイベルガー は、シュトラウス2世がインスピレーションを「節約」したために、劇中の音楽で良いのはせいぜい二、三曲だと評している[ 3] 。
ホイベルガーの批評は的を射たものであった。当初から乗り気でないシュトラウス2世の筆はなかなか進まず、初演の時になってもまだ序曲ができていない有様だったのである[ 1] 。序曲がようやく披露されたのは、25回目の公演になってからであった[ 1] 。
シュトラウス2世の音楽はそれなりには評価されたが、批評家たちによる台本のほうの評価は、けっして思わしいものではなかった。台本の混乱ぶりから『無理性の女神 』というあだ名が付けられる始末であった[ 3] 。『Die Neue Freie Presse』紙は、「血にまみれたギロチン を花でごまかすことができるか[ 3] 」と疑問を呈した。『フレムデンブラット (ドイツ語版 ) 』紙は、「台本作家は、演技の論理的な組み立てよりも、色のあやなす情景のほうに熱を入れたらしい[ 3] 」と書いた。あれこれ言われたが、出演者たちの演技も良かったことから、劇場の演目から消えるまでに36回の上演回数があった[ 3] 。
シュトラウス2世の死後、フェルディナント・シュトルバーク によって音楽はそのままにして全面的に台本が書き直され、1909年 12月にライムント劇場 において『裕福な娘(Reiche Mädchen)』として上演されると、原作『理性の女神』を超える大成功となった[ 3] 。
ニューイヤーコンサートと《序曲》
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 によるニューイヤーコンサート への登場は、以下の通りである。
関連作品
このオペレッタの劇中音楽から生まれた作品群
ワルツ『今日は今日』(作品471)
ポルカ『まあ、つべこべ言わずに』(作品472)
行進曲『我らの旗のひらめくところ 』(作品473)
ポルカ・マズルカ『まどろむ切妻』(作品474)
ギャロップ『チャンスをつかめ』(作品475)
『理性の女神』カドリーユ(作品476)
出典
^ a b c d e f ケンプ(1987) p.224
^ ルシューズ(2013) p.125
^ a b c d e f ケンプ(1987) p.225
参考文献