王宮 (バンコク)
タイのバンコク・プラナコーン区にある王宮(タイ語: พระบรมมหาราชวัง、英語: Grand Palace)はタイ国王の「公的」な居住地であり、国内すべての宮殿の中でもっとも重要とされる宮殿。ただし、実際にはラーマ9世以降国王は居住しておらず、日常的な公務もここで行われていないが、戴冠式、上級王族の葬儀、国王誕生日謁見の儀などの重要式典は、ここが使用される。大まかに外朝と内朝に分かれているが、一般公開されているのは、外朝の一部のみで、内朝は公開されていない。 名称この宮殿の名称には特定の固有名詞等が含まれていない。タイ語ではこの宮殿はプラボーロンマハーラーッチャワン(พระบรมมหาราชวัง)と呼ばれるが、これは大宮殿という意味の語(前述タイ語の最後の言葉「ワン」)を絶対敬語にしたものであり一般名詞である。従って日本語では「王宮」のような言葉でしか表せない。 概説王宮の建設は1782年5月6日に着工した。当時は木造のタイの伝統的様式で建てられていた。翌年から徐々に要塞化して石材の建造物を建設し、国王を経るごとに増築され続け現在みられるような形になった。 王宮はおおざっぱに北から寺院(ワット・プラケーオ)やかつて公官庁が存在した外側部分、国王のオフィスである中間部分、国王の家族が居住する内側部分となっており、宮殿の北側を「前」と表現するなど北向きを意識して建てられた宮殿である。 伝統的に王室専用の仏教寺院が付属することが一般的であった時代に建築されたため、ワット・プラケーオを王宮に含めることが多いが、ここでは寺院については触れず、寺院に関しては該当ページを参照するものとする。 建築物プラマハーモンティエンの建造物群プラマハーモンティエンとはモンティエンつまり王宮の中枢に当たる部分を敬語化した言葉である。現存する建造物の中でも古い部類に入る建物で1785年にラーマ1世に建てられ、その後ラーマ4世(モンクット)までがここを住居とした。内部が一般に公開されているのはアマリンタラウィニチャイマハイスラヤピマーン宮殿(通称アマリン宮殿、アマリンウィニチャイ宮殿)のみである。この宮殿群を構成する建造物には以下の建築物があるが殆ど非公開で外からも見ることができない。
チャックリーマハープラーサート宮殿群チャックリーマハープラーサート宮殿(チャクリー宮殿)を一番手前の北側に置いて南に展開する宮殿群である。これらの宮殿は即位後、建造を計画したラーマ5世(チュラーロンコーン)の幼少期を過ごしていた場所であり、即位の後、モンティエンに移るよりもこちらを増築することを選んだ。建築は即位直後の1868年からはじまりチャクリー宮殿以外は1873年に完成した。ラーマ5世は、153人の妻や子供のため王宮が手狭になったため、ウィマーンメーク宮殿を建設し1900年そこに移り住んだ。なおほとんどの宮殿は非公開である。
ドゥシットマハープラーサート宮殿群ドゥシットマハープラーサート宮殿(通称ドゥシット宮殿であるが、ウィマーンメーク宮殿一帯をドゥシット宮殿とも呼ぶので注意)を筆頭に、ピマーンラッタヤー宮殿、アーポーンピローク宮殿、ラーチャクランヤサパー宮殿、が存在する。国王や王妃、高位の王族が死んだ際に遺体安置所として利用される。ドゥシット宮殿はもともと、アユタヤ王朝のサンペット宮殿を元にして1785年に着工した宮殿であるが1789年に消失したため、再建されその後も国王を経るたびに変更を加えられたため、原型をとどめていない。この原型を考古学的な考察に基づいて復元した物がムアン・ボーラーンにある。 その他
通称プッタイサワン宮殿。城壁の東側、サナームチャイ通りに面した建造物で、宮殿の中心に外を見るためのベランダがある。国王がお祭りを見学したり、戦象の調教を見るところであったが、現在は国王が一般民衆に直接宣言したりする際に利用される事がある。 洋館皇太子ワチルンヒット王子のためにラーマ5世が作った純洋風の宮殿。ラーマ6世から8世まで国王の住居として利用された。
元造幣局でローン・カサープシッティカーンと呼ばれた。ルネサンス様式の建築物。1857年に開かれ1902年に新たな造幣局が作られるまで使われた。1982年より博物館。
一階建ての建築でドリス様式の円柱と壁柱を持つ。1871年ラーマ5世の私兵団の事務所として建設され、コンコーディア・ホールと呼ばれた。ラーマ7世(プラチャーティポック)によって1875年迎賓館として利用されることになり、現在の名前に変えられた。
元々はラーマ1世によって建てられた物で、国王が政府高官と謁見する場所であった。ラーマ3世はこれをコンクリート製の建造物に変更、ラーマ5世によって現在の洋風建築となった。コリント様式の壁柱を持つゴシック様式の建造物である。 関連項目
参考文献
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