瀧直太郎瀧 直太郎(たき なおたろう、1853年(嘉永6年) - 1870年9月27日(明治3年9月3日))は、江戸時代末期(幕末)の徳島藩士。名は納。字は敏行。 生涯阿波国助任町出身。瀧辰三郎の子。柴秋邨の塾に入り、学才が抜群と言われた。文学一等生。徳島藩の子弟寮長となった。 1870年(明治3年)に庚午事変(いわゆる稲田騒動)で稲田家襲撃に関与したことにより、同年9月3日に徳島市住吉の蓮花寺にて切腹した。享年18。これが日本法制史上、明治以後に行われた切腹刑の1つとされる。(最後の切腹刑は、2年後の1872年[明治5年] 11月4日に金沢藩執政(藩臣最高職)本多政均の暗殺に対する加賀本多家旧臣の敵討ち[明治の忠臣蔵と言われている]により、石川県刑獄寮の裁判で切腹の判決が下され切腹した旧臣12人[本多弥一、富田総、鏑木勝喜知、吉見亥三郎、矢野策平、西村熊、舟喜鉄外、浅井弘五郎、廣田嘉三郎、湯口藤九郎、芝木喜内、藤江松三郎]である[1][2])。 脚注
参考文献
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