潤野炭鉱

潤野炭鉱(うるのたんこう)は、福岡県嘉穂郡潤野村(後の鎮西村[1] / 現:飯塚市潤野[2])に、かつて存在した炭鉱

歴史

1883年明治16年)、帆足義方[注 1]によって採掘が始まる[2]1886年明治19年)、大阪市の商家「加島屋」の広岡信五郎が買収した[2]。広岡信五郎の妻の広岡浅子は、潤野炭鉱(後の製鐵所二瀬炭鉱)の買収に一役買い、開発にも着手。単身炭鉱に乗り込み、護身用のピストルを懐に坑夫らと起き伏しを共にしたと伝えられている。広岡浅子は、その後も監督のために潤野炭鉱に赴いている。

当初は落盤事故などが相次ぎ経営は赤字であったが、鉱脈の発見や運営の改善により、1897年(明治30年)以降は出炭量を大きく伸ばし、優良な炭鉱に変貌した[4]。加島屋は三井物産との取引で中国上海に向けた石炭輸出事業を開始[3]。三井物産の総帥である益田孝に宛てた広岡信五郎の妻・広岡浅子の書状が現存している(三井文庫所蔵)[5]

1899年(明治32年)、建設中の官営八幡製鉄所への石炭供給源として国に売却され、官営製鉄所二瀬炭鉱となる[4][6]1903年(明治36年)1月にはガス爆発事故が発生して死者64人[7]、さらに1913年(大正2年)2月6日には同じくガス爆発で死者103人を出す事故が発生した[8]。八幡製鉄所は1934年に日本製鐵となり、さらに1939年に鉱山部門を日鉄鉱業として独立させ、同社の二瀬鉱業所に属する炭鉱となった[3]1961年(昭和36年)に閉山[7]

潤野本鉱跡地は現在、福岡県立嘉穂高等学校・附属中学校などになっている[6]。また、かつて中央坑があった場所はイオン穂波ショッピングセンターの東側に位置する[3]

脚注

注釈

  1. ^ 元軍人だったが、西南戦争で訪れた九州で炭鉱業の将来性を見出し、退役して筑豊で炭鉱業を興した[3]

出典

  1. ^ 石野伸子「【九転十起の女(21)】一獲千金を夢見、われ先に走る…日本の近代化は石炭産業の産声とともに」『産経WEST産業経済新聞社、2015年5月25日、2面。オリジナルの2020年12月2日時点におけるアーカイブ。2020年12月2日閲覧。
  2. ^ a b c 平成27年度飯塚市歴史資料館企画展 広岡浅子と明治時代の筑豊炭鉱” (PDF). 飯塚市歴史資料館. 飯塚市 (2015年10月1日). 2020年12月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年12月1日閲覧。
  3. ^ a b c d 潤野炭鉱” (PDF). 九州産業大学. 2020年12月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年12月2日閲覧。
  4. ^ a b 浅子、潤野炭鉱へ(広岡浅子の生涯)”. 大同生命 (2015年). 2020年12月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年12月2日閲覧。
  5. ^ 石野伸子「【九転十起の女(20)】人物像決定付けた炭鉱経営 伝説はいかにつくられたか」『産経WEST』産業経済新聞社、2015年5月22日、1面。オリジナルの2020年12月2日時点におけるアーカイブ。2020年12月2日閲覧。
  6. ^ a b 遠き日の製鉄 二瀬炭坑”. 合資会社アソシエ. 2020年12月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年12月2日閲覧。
  7. ^ a b 石野伸子「【九転十起の女(25)】殉職者の慰霊碑 女性名、同姓に胸つまる」『産経WEST』産業経済新聞社、2015年5月29日、1面。オリジナルの2020年12月2日時点におけるアーカイブ。2020年12月2日閲覧。
  8. ^ 下川耿史『環境史年表 明治・大正編(1868-1926)』p.385 河出書房新社 2003年11月30日刊 全国書誌番号:20522067

関連項目