滋野貞雄
滋野 貞雄(しげの の さだお)は、平安時代前期の貴族。姓は宿禰のち朝臣。尾張守・滋野家訳の三男。官位は従四位上・摂津守。 経歴右京出身。若い頃より大学寮で学び、詩賦に習熟する。弘仁7年(816年)主殿少属に任ぜられ、掃部権允・右衛門少尉を歴任するが、嵯峨天皇に召されて近侍しその恩寵を得る。のち、掃部助に転じ左近衛将監を兼ねる。この間の弘仁14年(823年)には父・家訳らと共に宿禰姓から朝臣姓に改姓している。 淳和朝の天長4年(827年)従五位下に叙爵。のち、備前権介を経て、承和5年(838年)従五位上・備前守に叙任されるなど、淳和朝から仁明朝にかけて備前国の国司を務める。仁明朝半ばには少納言・侍従と京官に任ぜられるが、承和12年(845年)丹波守、嘉祥4年(851年)但馬権守と仁明朝末から文徳朝にかけて再び地方官を歴任する。しかし、地方官としては特筆すべき治績は無かったという[1]。またこの間、承和13年(846年)正五位下、嘉祥3年(850年)従四位下と累進した。 清和朝初頭の貞観元年(860年)正月に摂津守に任ぜられ、11月には従四位上に至るが、同年12月22日卒去。享年65。最終官位は従四位上行摂津守。 人物身長が六尺(約180cm)以上あり、容姿・振る舞いが優れていた。性格は仁愛が深く、他人と競うようなことはなかったという[1]。 官歴『六国史』による。
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