滋野井公賢滋野井 公賢(しげのい きんかた、建仁3年(1203年) - 没年不詳)は、鎌倉時代前期の公家。権大納言・滋野井実宣の長男。官位は正四位下・参議。 経歴後鳥羽院政期中期の承元3年(1209年)従五位下に叙爵し、建保2年(1214年)侍従に任官する。承久元年(1219年)右近衛少将に遷ると、承久3年(1221年)正月に正五位下、12月に従四位下と昇進。父の滋野井実宣から昇進面で支援を受け、貞応元年(1222年)実宣が左衛門督を辞して公賢は右近衛中将に、嘉禄元年(1225年)7月には実宣が権大納言を辞した代わりに、公賢は上﨟8名を超えて蔵人頭に任ぜられている。同年中に正四位下・参議に叙任されて公卿に列した。 公賢には本妻として承久の乱で処刑された権中納言・葉室光親の娘、妾に押小路姫宮戸部(承明門院中納言の娘)がいたが、実宣から「権門富有の婚姻」を勧められ「無縁の妻妾を禁制」して妻妾との離縁を迫られる。公賢がこれを拒むと、実宣から朝廷出仕に関する支援を停止されてしまう。公賢はこれらによる心労が重なったこともあり、嘉禄2年(1226年)正月28日に生母の周忌仏事を終えると、夜半に二人の妻妾とともに逐電・出家した[1]。最終官位は参議正四位下兼越中権守。 官歴『公卿補任』による。
系譜注記のないものは『尊卑分脈』による。 脚注参考文献
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